【旅の拾いもの】東京 御岳山の御師と信仰

東京都
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はじめに

行楽地として人気の東京の御岳山は、霧がかかると神秘的で幻想的な雰囲気になり、「都内の秘境」「天界集落」「天空の郷」と呼ばれています。山頂には御師の営む宿坊があり、江戸時代から講を組んで御岳山に登り、宿坊に泊まり、御嶽神社に参拝する昔からの風習が今でも続いています。御師集落の残る場所は、関東では神奈川県の大山とここだけで、失われつつある昔の雰囲気が残る、独特な場所です。

今回は、そんな御岳山の御師や御嶽神社の信仰について書いてみたいと思います。先日、東京の御岳山の宿坊に一泊してブログで紹介したので、こちらの別館でも記事を作ることにしました。御岳山については以前に記事を幾つか書いているので、今回は、前回の記事を分かりやすくまとめ、それに新しく知ったことを加えています。目次の関連記事に過去に書いたものを載せているので、もっと知りたい方はそちらも是非ご覧ください。

御嶽神社参道に並ぶ宿坊と御師

ケーブルで御岳山に登ると、御嶽神社への参道があります。この参道には、途中、20数軒の宿坊があります。

宿坊は、元々、御嶽神社に参拝しに来た人たちに食事や寝床を提供する宿で、神社の神主や御師が経営していました(現在も御師が経営しています)。

御師は神社に属する人で、中世や近世はツアーコンダクターや旅行代理店の顔を持っていました。御師と言えば伊勢神宮が有名で、これはついでですが、伊勢神宮は別の神社と区別するために「おし」ではなく「おんし」と呼ばれています。

明治4年までは御師という職業があり、中世から近世にかけて、神社やお寺に属する御師が、各地を廻り、御岳信仰を伝え、御嶽神社に参拝するように活動しました。

御岳山に参詣すると作物がよく育つ、商売が上手くいくといった現世利益(げんぜりやく)を説き、各地で信者である檀那(だんな)を獲得し、定期的に御岳山に参拝させ、その道案内と寝食などの参拝中の世話をしました。

そのため、神社やお寺の参道や近くの街道には御師の宿が集まり、御師集落が形成されました。

明治になると、農業や商業などを兼業していた御師は正規の神職(しんしょく)ではないという理由から、御師職そのものが廃止され、全国の御師たちは農業や旅館業に移りました。

ここ御岳山では、山間部で農作物が育ちにくいとの理由で、宿泊業に転業する御師が多かったといいます。

明治までは御師は日本の各地におり、伊勢神宮や出雲大社、熊野神社、関東だと埼玉の三峯神社、富士山や大山、などに参拝する人の世話をしましたが、今では御師の集落が残っているのは、関東ではここ御岳山と大山だけとなっています。

ケーブル駅から御嶽神社に向かう参道の手前には、神主さんが営むお茶処があります。

ここ馬場御師住宅は、江戸時代末期、幕末に建てられた御師の住居で、当時御師がどのような家に住んでいたのか分かる貴重な建物です。東京都の有形文化財となっています。

戦国時代に名を馳せた武田四天王の一人、馬場信春の子孫の方が、代々御嶽神社の神職である御師を世襲してきた家柄のようです。

ついでですが、御嶽神社の神主さんは御師の方が交代で務めているようです。

参拝記念碑と檀那

御嶽神社の参道に並ぶ宿坊には参拝記念碑が建てられていますが、御嶽神社の境内に入ると、その数が更に増えます。

記念碑の表には参拝者の住んでいる土地が書かれており、裏には訪れた村人たちの名前が書かれています。参拝をしてから100年経ったり、講を組んでから100年経ったことを記念して建てられたことや、神社のお祭りの記念して建てられたことが記念碑の表に書かれています。

信者である檀那は村の中で、「講(こう)」という相互扶助の組織を組み、皆でお金を積み立て、そのお金で順番に御岳山に参詣しました。御嶽神社に参拝する講を御嶽講といい、富士山に登拝する富士講などの参拝講が、江戸時代中期あたりから増えました。

参拝者は村の代表として神社に参詣するので「代参」といわれました。くじ引きで神社にお参りする人を選び、1年に一度参拝するのか数年に一度なのか、村によって違いますが、一度当たった人は次回からくじから外れ、基本的には全員が一度は参拝できるようになっていました。

代参が終わり、一通り講員全員が参拝し終わると、全員で参拝して代々神楽を奉納することがあったようです。泊まった宿坊には、代々神楽を納めたことが書かれている板がありました。

御嶽講の参拝記念碑には埼玉・東京・神奈川の講が多く見られますが、江戸時代や明治・大正時代は、他の地域からも参拝者が訪れました。山梨・茨城・千葉・栃木・静岡とその範囲は広く、中には福岡県や北海道の旭川から御岳に参拝する講もあり、それだけ御師たちの布教が精力的だったことが分かります。

明治時代になるまで御師たちは、年に三回の檀家廻りを行い、お札を配り、年に一度御嶽神社に参詣するよう勧めたといいます。栃木・群馬・茨城からの参拝者の中には、講を組まずに個人で参拝した例もあり、その熱烈な信仰がうかがえます。

御嶽神社と御岳信仰

標高929mにある御嶽神社は、平安時代の天平8年(736)に行基が創建し、関東一の霊山となり、多くの修行僧が訪れたと伝えられています。行基が修験道の本尊である蔵王権現を祀ったことから修験場として栄え、関東の有力な武将たちの信仰を集めました。鎌倉時代は源頼朝により社殿が修理され、鎌倉幕府の有力な御家人だった畠山重忠が鎧と太刀を奉納し、室町時代は足利尊氏が領地を寄進したことが伝えられています。

南北朝以降の中世では、山岳には必ず蔵王権現が祀られ、御嶽と呼ばれ、各国に一山ずつ御嶽があったそうです。ネットで「御嶽山」や「御嶽」と検索すると長野の御嶽山(おんたけさん)や沖縄の御嶽(うたき)が出てくるのはそのためで、ここ御岳山はそれらと区別するために「武州御嶽」や「武蔵御嶽」と呼ばれています。

江戸時代になると、御嶽神社は江戸城を護る神社として社殿が改築され、それまで南を向いていた社殿は江戸城のある東に向くように造り替えられました。拝殿の彫刻が日光東照宮を思わせる造りになっているのは、江戸時代の元禄期に造営されたからでしょう。

幣殿・拝殿の後ろにある本殿のある、一段高くなっている敷地には、摂社や末社が祀られています。更に一段上がった(あがった)所には、御嶽の地を護るオオカミを祀った大口真神社(おおぐちまがみしゃ)が祀られています。

遥か昔、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征をし、道に迷った際に、白い狼が道案内をして助けたことから、山を護る眷属としてオオカミが祀られています。

オオカミは「ヤマイヌ」とも呼ばれていたことから御嶽神社では「おいぬさま」と呼ばれ、「おいぬさま」が描かれた御札が配られるようになりました。「おいぬ」は「老いぬ」にも通じることから、縁起が良いとして、江戸時代に庶民の信仰を集めました。

オオカミは作物を荒らすイノシシやシカを退治するため五穀豊穣の御利益があるとされ、また、蔵王権現の眷属であるオオカミは、人間に降りかかる諸々の災い、例えば、火事や盗賊、病気を防ぐと信じられてきました。ふさふさした大きな尻尾で火を消し、また病気を運んでくると云われたネズミを食べることから、幕末にコレラが流行した時は、「おいぬさま」の御札が江戸の町中に広がったといいます。

現在も「おいぬさま」の御札は家の門や玄関、倉、畑などに貼られ、厄除けとされています。散策していても、たまに古い家の門や、博物館や郷土資料館で再現された昔の家屋に貼られているのを目にすることがあります。ついでに、御札の「おいぬさま」の目は三日月の形をしていますが、これは御岳山が「月の御岳」と言われていたことに由来するのだそうです。

「おいぬさま」信仰が盛んだったここ御嶽神社では、現在は犬の祈祷を受け付けていて、犬の健康祈願をお願いする愛犬家の信仰も集めています。御守りや御札が売られている隣、写真の左には犬の祈祷を行う場所があります。

大口真神社の隣には、太占の祭場があります。

太占とは、鹿の骨を焼き、骨の割れ具合によって作物の吉凶を占うもので、現在は
御嶽神社と群馬県富岡市にある貫前(ぬきさき)神社だけしか行われていないようです。

毎年1月3日の早朝に行うこの神事は、以前ある講中がその結果を調べたところ、80%以上が的中していたと云われています。太占の結果は、御師の冬の檀家廻りで各家に配られ、農家ではそれを参考にして農作物を植えました。

幣殿・拝殿の右側の案内板には、御嶽神社の土を持ち帰ってそれを田畑に撒くと、土の霊力によって虫の害を防ぐことができるという信仰が今でも残っていることが書かれています。

御嶽神社に参拝した熱心な講の中には、養蚕業に携わる者が多かったといいます。荒川の南から多摩川の北を指す武蔵野では、幕末に横浜に港が開かれてから、養蚕が盛んになりました。元々畑作の多かった農村では、換金性の高い桑を栽培する農家が増え、たくさんの蚕が飼われ、生糸が生産されました。

五穀豊穣を願った参拝者らは、御師の宿坊に滞在している間は、最初に出された箸でずっと飲食をし、それを持ち帰って蚕の処理をするのに使ったといいます。他にも、雨乞いや狐に憑かれた憑きものを落としに参拝する人もいたようです。

幣殿・拝殿の両脇には献納された灯籠があり、その下には発願者の名前が書かれています。名前を見ると町人のような気がします。御嶽神社に参拝した人のうち、16%は江戸の町人だったといわれています。全体的に町人の数は多くはありませんでしたが、商売が儲かると多額のお金を納めたため、御嶽神社にとって江戸の町人は社殿を改修するのに必要な檀那でした。

こちらはおそらくもっと古い時代のものでしょう。

境内には奥宮の遥拝所(ようはいじょ)もあります。かつての修験場の名残を感じさせます。

宝物殿では、畠山重忠が奉納した日本三大鎧の一つで、日本最古といわれる大鎧を観ることができます。

畠山重忠の生涯を映像で知ることもできました。畠山重忠は、源平の争乱の一の谷の戦いで「鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかおとし)とし」の時に、馬が怪我をしないようにと、馬を背負って崖を下りたエピソードがある武将です。

宝物殿は土曜と日曜しか開いていないので、観る機会があれば中に入るのがおすすめです。

以上、簡単ですが、御嶽神社の歴史と信仰について紹介しました。歴史や民俗学が好きな人は、宿坊に一泊して、御嶽神社や宿坊の周りを歩いてみるのがおすすめです。宿坊によっては滝行に参加できますし、宿坊の宿泊者は御嶽神社で毎朝行われる日供祭(にっくさい)という、祝詞と奏上する神事に参加することができます。

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今回は御岳山について、その歴史と信仰を書きました。過去に本を読んで調べたことを記事にしているので、興味のある方はそちらも読んでください。また、メインサイトの御岳山一泊の記事のリンクも載せてありますので、そちらもどうぞご覧ください。写真で御岳山がどんな場所なのか知りたい人におすすめです。

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