【柴又帝釈天】庚申待 帝釈天信仰や庚申信仰、暦、講、縁日などについて

旅の拾いもの

メインサイト(綴る旅)で柴又帝釈天の記事を書いていたら、庚申待(こうしんまち)というものを知った。60日ごとにめぐってくる庚申(こうしん)の日に、地域の者が集まり夜通し朝まで起きている行事だ。江戸時代には日本の各地にあり、昭和三十年代まで全国各地で盛んに行われていたらしい。

今回は庚申待の話を中心に、暦や縁日について知ったことを少し書いてみたいと思う。

柴又帝釈天では、日蓮上人が彫ったとされる帝釈天がご本尊とされているが、江戸時代中期に一時所在不明となっていた。それが庚申の日に改修中のお堂の梁の上から見つかったことから、庚申の日をお寺の縁日とした。天明の大飢饉の時に、当時の住職が本尊を背負って江戸の町を歩き、飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な霊験があったことから、柴又帝釈天への信仰が広まったという。

こうして江戸を中心に高まった帝釈天信仰が、同じように当時江戸で高まってきた、後述する庚申待の信仰と結びついて、「宵庚申」の参詣が盛んになった。庚申の日の前日になると付近の住民が帝釈天の参道に集まり、参道の店で飲食をしながら夜を過ごし、朝になるとお寺に参拝して帰るようになり、18世紀末に門前町が形成されるようになったらしい。現在柴又の参道は川魚料理の店が知られているが、それらの老舗はこの時に創業したお店なのだそうだ。
(参考サイト:Wikipedia、柴又帝釈天のホームページ)

柴又帝釈天の二天門には庚申と書かれた大きな提灯がある

お酒を飲んで夜を明かしてからお寺にお参りに行くというのを聞くと、罰当たりのような気もするが、庚申待は徹夜することに意味がある行事である。そもそもは道教の思想から来たもので、奈良時代の貴族に間に広まった儀式とされている(平安時代とも)。道教では、人間には三尸(さんし)という三匹の虫がいて、常にその人の行動を監視していて、庚申の日の夜になると寝ている間に密かに体から抜け出して天帝の元に行くと考えられていた。その時に三尸は宿主の罪科を全て報告するのだが、天帝はその罪科によって宿主の寿命を縮めてしまうという。

そこで夜は眠らないで体から三尸が出て行かないようにし、貴族達が宮中に大勢集まって詩歌や碁、管弦などの宴遊を行いながら夜明かしをする儀式が行われるようになったのだ。三尸が出て行かないようにするには五穀断ち(米・麦・粟・黍=きび・豆の五穀を食べない苦行)をすればいいのだが、これは相当苦しいことだから、そういったことは聖に任せて自分らは夜通し起きてましょう、ということのしたのであろう。

五穀絶ちは修験の一つとして知られているが、生きたまま仏になることを目指した即身仏になるための苦行としても知られている。即身仏については、この先の「旅の拾いもの」電車日本一周の旅6日目の高野山のところで書きたいと思う。

徹夜をする宮中行事が、15世紀に仏教と結びつき、本尊に祈るようになり、道教的な色彩が薄らぎ、貴族や武士以外の人々も信仰するようになり、全国的に広がっていったようだ。そして民衆の間でも、公然と夜明けまで酒食の宴が許されたことから、江戸時代に更に広がったのだ。

庚申には祭神が多く、仏数では帝釈天やその使者の青面金剛(しょうめんこんごう)を本尊とし、時代が下り江戸時代後期になると、神道では猿田彦大神(天孫降臨の際に道案内をしたという神)を祭祀するようになる。YouTubeにも昭和の頃の庚申待の動画がアップされているが、像ではなく、掛軸に描かれた神仏に祈りを捧げる場合が多いようだ。

また、庚申待が行われていた集落では、供養のためや記念として庚申塔という石碑が建立されている場所も少なくない。各村々で庚申講という講を組んで、輪番で庚申をする家を決め、そこで皆が集まり、祈りを捧げたあとは飲食しながら歓談したという風習がある。くじを引きなんかも行われたらしい。

飲食ができることから一種の祭りのような緩さがあるが、性交はタブーとされている。また、庚申は陰陽五行説でいうと「金」の属性があることから、金属を身につけることもいけないとされた。庚申待は宵庚申、おさる待ちなどといわれることもあるらしい。

庚申待について書いてきたが、庚申待というものに興味を持ったのは、「庚申(かのえさる)」という暦が気になったからだ。毎年新年を迎えると、今年は何年かと十二支を気にすることが少なからずあると思うが、よくよく見てみると毎年二文字で表している。2021年の今年であれば、丑年なのだが「辛丑(かのとうし)」と書かれている。普段なら気にも留めないのだが、日本の文化に興味を持ってからこの二文字で表す暦(六十干支=ろくじっかんしというのだが)が気になるようになった。

六十干支とは、甲乙丙丁…という十干と、子丑寅卯…という十二支を組み合わせた60組の干支で、古来から日本ではこれを用いて、年、月、日、時などを表してきた。60組あるから日にちであれば60日に1度めぐってきて、年であれば60年に一度めぐってくる。還暦のお祝いもここから来ている。

余談だが、最初は十干と十二支の組み合わせが、なぜ60組になるのか理解できなかった。10通り×12通りで120通りになるのだろうと思っていたが、これはあくまで組み合わせ方の問題で、十干の一つを全ての十二支に当てはめていくものではない。十干と十二支をそれぞれ1つずつずらしていくため、10と12の最小公倍数である60で1周する。ネットで調べてみたら同じように疑問に思う人が多いので、一応書いておくと、

分かりやすい例として、AとBの2つのものと①②③④の4つのものの組み合わせ方は、2×4=8(通り)ではなくて最小公倍数の4(通り)となる。

ABAB|ABAB|ABAB…
①②③④|①②③④|①②③④…

となるのだ。A②やB①という組み合わせはできない。数学音痴の自分としては言われてみればなるほどとしか言えないが、こういった理屈らしい。

さて、こうした六十干支による干支は縁日にも使われている。先述の通り、庚申の日が柴又帝釈天の縁日であるように、祀る神によって六十干支が縁日にされる例がある。大黒天のお寺では甲子(きのえね)の日が縁日となり、弁財天のお寺では己巳(つちのとみ)の日が縁日となる。

縁日というと昔は屋台を想像していたが、お寺で屋台が出るのはおめでたい日だからである。神仏の降誕や降臨などと縁(ゆかり)のある日で、その日にお参りすると普段以上のご利益があるとされている。縁日が毎月あるお寺も少なくなく、例えば薬師如来が本尊のお寺は毎月8日、弘法大師は21日、不動明王は28日とされている。

散策をしていると、お寺に行った日が偶然そのお寺の縁日で、普段とは違うご利益があることが、自身の経験からもある。普段拝めないご本尊が開帳されていたり、宝物殿のような所や普段公開されていない場所に入れたり、お堂でお坊さんのお話を聞けたりと、そんな「ご利益」がある。散策するのが好きな人や各地のお寺に参詣することが好きな人は、知っておくとよいと思う。

柴又帝釈天については、メインサイトで紹介しています

【東京】柴又散策① 彫刻の寺 柴又帝釈天へ | 綴る旅 (tsuzuritabi.com)

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