【小話】鎖国期に海を渡った有田焼

佐賀県

鎖国期の日本の輸出品の中で、海外から人気のあったものといえば陶磁器も知られている。金・銀・銅・樟脳に劣らず海外から重宝され、日本の文化・芸術を世界に知らしめたものとして有名だ。

信長が保護した瀬戸焼や、秀吉が朝鮮から連れて来させた陶工による肥前焼(有田焼や伊万里焼)は江戸時代初期の頃には発達はしてはいたものの、国内の需要を満たすにはまだ生産が十分ではなかった。そのため、オランダ船や中国船から中国の陶磁器を輸入して、国内で足りない分を補っていた。

しかし、17世紀中頃になると輸出できるくらいの生産力をつけるようになる。そして、寛文元年(1661年)に鄭成功が台湾を占領しオランダが中国から陶磁器を輸入できなくなると、オランダ人は日本人に中国の陶磁器の代わりに作るよう依頼する。それに応えるかたちで伊万里焼や有田焼などの肥前焼は更に大量に作られるようになり、生産力を上げていくことになる。

海を渡った日本の陶磁器はオランダだけでなくアジア各地でも人気が出るようになり、オランダ人は日本の焼物で大きな利益を出すまでになる。記録に残されているものとしては、寛文3年(1663年)には4万8千個もの陶磁器が、翌々年の1665年には6万5千個近くもの陶磁器が輸出されている。延宝3年(1675年)には、ペルシアに3万個の茶碗が輸出されている(岩生成一著『日本の歴史14 鎖国』中公文庫参照)。

こうも短期間に大量のものを作れる生産力の高さには驚く。火縄銃が日本に伝来してから僅か数年で、各地でコピーされ大量生産されたことはよく知られているが、陶磁器においてもそのようなことが見られるのは面白い。

また同時に、海外からの需要に応えたからこそ、陶磁器が発展したともいえる。中国の代わりの日本で生産された輸出向けの陶磁器には、オランダ人が西洋の文化に合した形や絵柄を注文した。そうしたことは、陶工や輸出に関わる日本人が西洋の文化を吸収する場にもなっただろう。

同じようなことは前回醤油でも書いたが、醤油を入れる瓶(ケルデル瓶やコンプラ瓶)も当時の日本人の目には目新しいものとして映り、多くの影響を受けたのだろう。

オランダへ輸出された醤油や日本酒はコンプラ瓶という有田焼の陶磁器に入れられた

次第に海外で評価されるようになる日本の陶磁器の中でも、特に柿右衛門が人気だった。正保頃(1645~1648年)に絵付けの方法が発明されてから、初代から三代に至る寛文頃(1661~1673年)までにその技に磨きがかけられ、肥前焼のなかでも異彩の存在になったそうだ。

17~18世紀の欧州では、遥か遠い異国である東洋から運ばれてきた磁器は、「白き黄金」と呼ばれるほど貴重なものとなり、欧州各地の王侯貴族はこぞって磁器を購入した。そのなかでも最も高級品として扱われたのが、柿右衛門様式の磁器だったことは、意外と知られている。

オランダでは伊万里焼の白磁と染付を研究し、それが今日のオランダの名産となっているデルフト焼のもとになっている。またドイツのマイッセンの陶工も模倣し、フランスやイギリスの工場でも伊万里焼の技法が取り入れられた。

陶磁器を包んだ紙に描かれていた浮世絵がフランスで目に留まり、以後日本の浮世絵が海外から注目されたのは有名な話だが、それに先立つ1世紀に日本の陶磁器がヨーロッパで流行り、模倣され技術が受け入れられたことには驚く。

これまでは日本の工芸品は独自に発達していき、それを海外が評価したものだと思っていたのだが、それは間違っていた。海外から最新の技術を取り入れ、それを海外の受注に応える中で質を上げていき、独自の工夫を凝らし、独創的なものを創り上げてきたことから、常に海外との繋がりがあったことが分かる。

室町期までの日本の文化は今の中国からの影響を主に受けていたが、江戸期になると一気に影響を受ける世界が広がっていく。鎖国期は窓口が限られていたにもかかわらず、アジアや西欧の文化・風習が日本に入ってきた。そんなこと思うと、江戸時代に華開いた文化や海外の輸出をきっかけに発展した技術を更に知りたいと思う。

2015年長崎歴史文化博物館にて。カップやソーサー、コーヒーポットの形や模様は当時の陶工に多大な刺激を与えたのだろう

参考サイト:一般財団法人 柿右衛門財団 Kakiemon Foundation Japan

参考文献:岩生成一『日本の歴史14 鎖国』中公文庫(2019年)

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