連日観光客で賑わう清水寺は、京都市東山エリアを代表する人気の観光名所である。
清水寺は奈良時代の後期、宝亀9年(778年)に、興福寺の僧・賢心が夢のお告げを受けて創建したのが始まりと伝えらえている、法相宗の寺院である。
平安京ができる以前からの歴史を持つ、京都では数少ない寺院の1つで、滋賀の石山寺や奈良の長谷寺と並ぶ日本でも有数の観音霊場としても知られている。
清水の観音や観音堂は『枕草子』や『源氏物語』、『今昔物語』に描かれており、平安時代に観音信仰の霊場として貴族の信仰を集めてきた。
御本尊の十一面千手観世音菩薩は秘仏で33年に一度のみ開帳され、次回の開帳は2033年の予定だが、その時は普段に増して多くの参詣者が訪れることが予測される。
この清水寺には興味深い歴史がある。
清水の舞台からの飛び降りである。
一大決心をすることを「清水の舞台から飛び降りる」と言うが、実際に参詣者がこの舞台から飛び降りることが、江戸時代に流行った。
飛び降りという命懸けの祈願をすれば観音菩薩の慈悲により命が助けられ、願いが叶えられる、万が一死んでも観音様により極楽に導かれる、そう信じられたのだ。
当時は舞台の下に木々が繁り土が柔らかく生存率は85%を超え、子供から老人まで男女200人以上が飛び降り、中には二回飛び降りる者もいたという。
自分のためではなく、主人のために願いを立てて飛び降りた者もおり、奉公人などの身分の低い者が多く、大半が京都に住む者で中には地方から来た者もいたことが記録に残されている。
とはいえ、60歳以上は助からず、中には自らの命を絶つために飛び降りた者もいたと考えられる(『京都はなぜいちばんなのか』)。
清水の舞台からの飛び降りが江戸時代に流行ったのは、何も無かったところから急に偶然発生したというよりは、その元となるものが以前からあったと考えられる。
それが平安時代末期に流行した、末法思想から発生した身投げだったのではなかろうか。
この世の終わりを恐れ、またはこの世を儚く思い、極楽へ往生しようと願い、平安時代末期から修験者をはじめとした者が清水寺の舞台から飛び降りたという。
一説には当時は舞台の下は崖になっていて、これは遺体を処理するためというが(『うめぼし博士の逆日本史〈貴族の時代編〉平安→奈良→古代』)、そんな場所で身投げによる自殺が行われたようだ。
崖への飛び込み自殺や死体の投げ入れは現在の清水寺からはまったく想像できないが、実は清水寺が鳥辺野に隣接していたことを知ると、それほど意外なことには感じられない。
これも清水寺の意外な歴史である。
鳥辺野といえば、化野と蓮台野と並ぶ京都の有名な風葬地で、その明確な範囲は分からないが、大まかに清水寺から大谷本廟の辺りを指すとされている。
とすると、鴨川から清水寺へ向かう清水坂は鳥辺野で、清水寺は風葬地にあったと考えられる。
『京都がなぜいちばんなのか』では清水寺が「死の世界のただ中に建つ寺」であり「風葬が行われて地域の中に存在した」と書かれている(p71、p73)。
平安時代は、火葬は高価な油を使うため身分が高い者に限られ、一般の人は風葬だった。
京都で亡くなった人の亡骸は鴨川を渡り鳥辺野に運ばれ、野ざらしにされた。
疫病や飢饉であまりに多くの人が亡くなると、鳥辺野まで運びきれず鴨川の河原に骸が並び、広い意味では鴨川の東は都のあるこの世に対するあの世とされていた。
清水寺はそうした場所にあった訳だが、そんな場所だったからこそ庶民の観音信仰が深まったのではないかと思う。
死後、鳥辺野に運ばれ野ざらしになっても、清水寺の観音様によって来世で救われる、そう信じられたのではないだろうか。
鳥辺野の南が貴族や皇室の墓所だったのに対し、北の清水寺の南の方は庶民の墓所だったという(『古寺巡礼 京都5 六波羅蜜寺』)。
そのことからも清水寺は身分の高い者よりも京都の民衆に近い場所だったことが分かる。
本来であれば清水寺は忌地である。しかし古来よりそこに住む人たちは忌地と考えず、観音様のおわす場所、観音様が救いの手を差し伸べて下さる聖なる場所と、信仰したのではなかろうか。
その思いが、現在の現在観光地として大きな人気を集める基になったのではなかろうか。
清水寺の歴史を知ると、そんな思いに馳せられる。
参考文献
樋口清之『うめぼし博士の逆日本史〈貴族の時代編〉平安→奈良→古代』祥伝社 (1995年)
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島田裕巳『京都はなぜいちばんなのか』ちくま新書(2018年)
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