赤沢宿を知ったのは2018年のことである。電車日本一周の旅の後に転職して新しい会社で3年ほど働いたが、仕事にも慣れ余裕が出てくるようになると、久し振りに大きなリュックサックを背負ってで電車で長旅をしたくなり、夏の青春18きっぷの利用期間に夏休みを取り、4泊5日の旅をすることにした。
旅のメインは京都の伊根湾にある舟屋に泊まることだったのだが、これは台風が直撃して叶わなかったのだが、海に行くついでに山にも行って昔の建物に泊まりたいと思った。人知れず静かな山間部にひっそりと佇む古民家などないものかと調べたら、赤沢宿にある大阪屋を見つけた。
赤沢宿は日蓮宗の信者が江戸時代以降、霊山と信仰する七面山に参詣する前に一泊する宿で、講中宿の面影が残されている。昔の旅人や巡礼者は村々で「講」というものを組んで参詣したため、参詣者のことを「講員」と呼んでいた。講員が泊る宿を講中宿といい、今でもそのように呼ばれている。講については、「旅の拾いもの」の御嶽山で書いているのでそちらを見ていただければと思う。
今でも講中宿の建物を保存しながら旅館業をしている所が2カ所あり、その一つの大阪屋旅館はゲストハウスとして営業している。宿泊客の8割は外国からの観光客らしく、数人やグループで一つの部屋に泊まり、キッチンを借りて持ち込んだ食材を調理するタイプの宿である。
もう一ヵ所は江戸屋旅館という宿があるが、ホームページも旅行サイトからの予約画面もなく、電話での問い合わせとなるが、宿泊料金が分からず一人で泊まれるのかも分からず、女将さんがご高齢のようで営業しているとも思えず、大阪屋旅館に泊まることにした。
英語を話せないからゲストハウスで外国人に話しかけられても困ると、正直気乗りせず、直前までキャンセルしようかと思っていたが、いざ行ってみると素晴らしい建物で来てよかったと心底思った。前日台風が酷かったのもあり宿泊客は自分一人で、山奥で一人静かに考え事をしながら過ごすことができた。
大阪屋旅館と江戸屋旅館は1階の座敷の外側に土間がL字に設けられている。これは通り土間(注1)と呼ばれるもので、一度に多くの参詣客が座敷に上がったり、宿から出発できるように土間が広く造られているのだ。座敷に直接出入りできるようになっている。
江戸時代中期から神社やお寺へ参詣する人が増え、明治・大正・昭和と時代が進むにつれて赤沢の地には沢山の参詣客が足を運んだ。明治期に身延線が開通すると、全国各地から日蓮宗の信者が総本山である身延山に参詣し、その後に赤沢宿に泊り七面山に参詣した。
最盛期は昭和初期といわれ定かでないが、最も繁盛していた時には1日1000人もの宿泊客が泊まり、昼食だけをとりに来る参詣客なら5000人が訪れることもあったなんていわれている。第一陣、第二陣、第三陣、第四陣と、参詣客を迎え入れては食事を提供し、七面山に送り出したとされている。
宿では板マネギと呼ばれる講中札(注2)や「大阪屋」と書かれた屋号札(注3)を外から見ることができ、内部の土間には千社札(注4)の貼られた天井を見ることができる。2階に上がれば、障子の外に設けられた縁側を歩くこともできる。
2階の縁側で横になると普段の生活では感じられない木の感触を背中や肩に感じる。嗅いだことのあるような懐かしい木の匂いがする。夏の終わりは蚊に刺さる心配もあまりなく、縁側で横になって日が沈み暗くなるのを、虫の声を聴きながらぼんやりと眺めるのは、田舎に帰ってきたような感覚がありいい時間だった。
2階の縁側は夜になると雨戸を閉めるのだが、これも面白い造りで、一ヵ所に納められている戸を一枚一枚取り出して溝に入れてスライドさせていく。戸締りは宿の方がするのだが、障子越しに聞こえる雨戸を閉める音が何とも新鮮で、昔の宿や家ではこういうことをしていたのかと、新鮮な体験ができたことは嬉しかった(注5)。
大阪屋は江戸時代後期の講中宿をリノベーションした建物で当時の名残が内部にもあり、格子など各所に日本建築の繊細な技法が施されていて、部屋の中を見ていて飽きないようになっている。隣には資料館があり、赤沢宿の歴史に触れることができる。
朝早く起きて流しで顔を洗うとひんやりとした冷たい水で目が覚める。もちろんお湯など出てこない。早朝の散歩に出かけると雲が低く流れ、幻想的でいい。雨が降れば降ったで雨雲が低く流れるのが集落の高い所や宿の2階から見え、これはこれでいい景色を楽しめる。
集落を歩いていると歌碑があり、若山牧水の歌が書かれている。明治から昭和にかけての戦前の歌人で、鉄道旅行を好み、鉄道紀行の先駆といえる随筆を残した人物である。旅を愛し各地で歌を詠んだ若山牧水は、赤沢にも3つの歌を残していて、集落には3ヵ所彼が詠んだ歌碑がある。
大の酒好きだったようで、1日1升もの酒を飲み死因は肝硬変といわれている。夏の暑い日に死亡したのにもかかわらず、死後しばらく死体から腐臭がしなかったため、生きたままアルコール漬けになったのではないかと医師が驚いた、なんて逸話がある。酒が好きで仕方なく、辞められなかった若山牧水が詠んだ歌にこんなものがある。
妻が眼を 盗みて飲める 酒なれば 惶(あわて)て飲み噎(む)せ 鼻ゆこぼしつ
若山牧水が詠んだ歌や紀行文のいくつかは、青空文庫で読むことができる。
文人といえば井伏鱒二もこの赤沢集落に訪れているが、赤沢については少ししか触れていない。赤沢で休憩した後に向かった七面山については、『夏日お山講』『七面山所見』『七面山のお札』に描かれている(「旅の拾いもの」の七面山参拝を参照)。
明治から昭和にかけてのジャーナリスト・思想家として知られる徳富蘇峰は『人間界と自然界』で大阪屋で昼ごはんを食べたことを書き、『黒い雨』で知られる井伏鱒二は『七面山所見』で身延から七面山に登る途中で赤沢で休息して七面山に登ったことを書いている。
(注1)通り土間(大阪屋旅館)
天井に貼られているのが(注4)の千社札
江戸屋旅館も同じような通り土間のある造りになっている。
(注2)板マネギ・講中札
(注3)屋号札(大黒屋)。赤沢集落内ではどの家も望月姓を名乗っていたため、旅人が区別できるようそれぞれの家に屋号を掲げた。
(注5)右手前の戸袋から雨戸を一枚ずつ取り出して、雨戸を閉めていく
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【山梨】再訪 赤沢宿散策 築180年の江戸時代の講中宿の面影を残す大阪屋に一泊 | 綴る旅 (tsuzuritabi.com)
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