【山梨県早川町赤沢宿】日本一人口の少ない町に佇む講中宿の名残り

旅の拾いもの

山梨県の早川町という場所に赤沢という集落がある。山梨県の南西部に位置する早川町は日本で一番人口の少ない町で、西山温泉や奈良田温泉のある山間の静かな場所である。その早川町の南の方に赤沢という集落があり、ここには講中宿の跡が残されている。

講中宿というのは、神社やお寺へ参詣する人をもてなす宿のことで、昔は村々で「講」を組んで寺社に参詣していた。毎年村の代表者が数名来ることがあれば、講員全員が来ることもあった。家族連れで参詣する村もあり、一つの講にいくつかの家族が集まって参詣することもあり、その土地や時代によっていろいろな構成になっている。

赤沢宿は本来、正式な宿場町ではなかった。江戸時代の中期から庶民の間に講を組んで旅をすることが流行り、日蓮宗の聖地とされる身延山に参詣する信者が増えたことで、旅人をもてなすようになった。旅といっても当時は参詣するのがメインであり、参詣目的で通行手形を発行してもらっていた。通行手形を発行するのはお寺だったらしい。

旅をするには許可が必要であり、その目的はあくまでも参詣や湯治であり、旅をする方も村の代表、講員としての立場をわきまえて旅をした。そして参詣した帰りは、本来のお目当てともいえる温泉や絶景、美味しい食べものを楽しんで村に帰った。

赤沢宿に足を運ぶ旅人たちは七面山に向かう日蓮宗の信者が多かった。日蓮宗の総本山身延山に参詣した信者たちは、山を降りて赤沢の集落で一夜明かして、翌日に霊山とされる七面山に登っていった。赤沢は身延山と七面山という日蓮宗の二つの聖地の間に位置していたため、そこを行き来する信者が立ち寄るようになったのだ。

江戸時代の後期から参詣者は増え、赤沢では講員をもてなすために旅籠の営業を始める家が増え、最盛期には30数件の家のうち9件の旅籠があったという。参詣者を担いで運ぶ強力という駕籠業や、物を運ぶ人足をする家も増え、昭和初期まで多くの参詣客で赤沢は賑わったとされる。

明治期になると、講員が自分の宿泊地の目印として講中札を宿に掛けるのが流行り、それぞれの宿に掛けられた札が並ぶようになる。この講中札は板マネギ(注1)とも呼ばれ、大正・昭和と時代が経つにつれて豪華になりカラフルな色鮮やかなものになっていった。

大正から昭和にかけて身延線が開通すると、全国から身延山に参詣する人がやってきて、赤沢の地は最盛期を迎えることになる。井伏鱒二の『七面山所見』には、身延山に登っている最中に「神戸日蓮講」「金沢日蓮講」「横須賀日蓮講」「横浜日蓮講」「東京日蓮講」の肩章を掛けた人を目にしたことが書かれており、昭和初期には各地から身延山に参詣する人がいたことが分かる。

『夏日お山講』では「東京お山講」の肩章を掛けた集団が100名余り電車にいたことが書かれており、沢山の参詣者が身延山に集まったことが分かる。身延山に登拝した信者のすべてが赤沢宿に寄った訳ではないだろうが、身延山の後に七面山に参拝する行程を取った信者も多かったと思われ、多くの人が赤沢宿を利用した時代があったのだ。

最盛期の赤沢宿は賑やかだったようで、特に4月と10月は参詣者が多かったらしい。多い時には1日で1,000人もの宿泊客が泊まり、江戸屋旅館や大阪屋旅館の大きい旅籠でも泊まれない人が出たほどだったといわれている。食事だけ摂りに来る参詣者は1日で5,000人もいたなんてこともいわれていて、第一陣、第二陣、第三陣、第四陣と、と参詣者の団体を時間ごとに休ませて七面山に送り出したらしい。

そんな繁盛した赤沢宿も戦後になると、迂回道路が整備がされ、車で身延山に行って七面山に向かい赤沢宿に立ち寄らなくなり、参詣者が一気に減る。戦後のレジャーブームにより参詣者自体も減り、昭和30年になると宿泊業を辞める家が出て、今では営業しているのは江戸屋旅館と大阪屋旅館の2軒のみとなっている。

赤沢宿は戦時中の空襲を受けず、また戦後の高度経済成長の影響を受けなかったため、当時の講中宿が残されている。石畳や石垣なども昭和初期の繁盛していた頃のもので、当時の名残がある。

赤沢の集落には、若山牧水が詠んだ歌碑が3つある(注2)。若山牧水は1885年(明治18年)- 1928年(昭和3年)の戦前日本の歌人で、各地を旅し歌を詠み、鉄道旅行を好み、鉄道紀行の先駆といえる随筆を残した人物としても知られている。

先述の井伏鱒二の『七面山所見』には、赤沢は一言しかふれられていない。「しかしホウロク坂の坂上から、谷を俯瞰する風景は悪くはなかつた。こつぽりと丸みを持つた小さな台地が目の下に見え、その台地は傾斜する畑に耕され一面の麦畑で、まさに麦秋をつげてゐた。人家の屋根もすこし見え、そこの部落を赤沢といふ」。これだけだ。

明治から昭和にかけてのジャーナリストの徳富蘇峰は、『人間界と自然界』で七面山に登る前と参拝した後に赤沢宿でご飯を食べたことを書いている。徳富猪一郎という本名で記した『人間界と自然界』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。

七面山に登る前の描写は、「赤澤は山の底と云ふよりも、寧ろ山麓の急勾配の傾斜地にある一部落にて、専ら七面山参詣者を相手として、生活するものらしい。(省略)大阪屋にて午餐(ごさん)す。萬山の底、鮪の刺身には驚いたが、其の新鮮なるに、更に驚いた(お榊さんは静岡大東館と親類とか)」とあり、大阪屋旅館でお昼ご飯を食べたことが書かれている。

また帰りは「赤澤村にて、亦た名物の蕎麦を喫した。(略)この度は椎茸飯にて、後にはイチゴなどが出た。何処で出来るかと聞いたら、矢張り此処で出来ると答へた」と描かれており、赤沢で採れた椎茸やイチゴを蕎麦と一緒に食べたことが書かれている。

※(注)

(注1)板マネギ

2018年赤沢宿大阪屋旅館にて

(注2)赤沢宿には若山牧水の歌碑は3つある。

集落の一番高い所:雨をもよほす雲より落つる青き日ざし山にさしゐて水恋鳥の声
大阪屋旅館の前の坂:花ちさき 山あぢさゐの 濃き藍の いろぞ澄みたり 木の蔭に咲きて
江戸屋旅館の前:朴(ほお)の木と先におもひし 近づきて 霧走るなかに見る 橡(とち)若葉

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