日本の中世の寺社勢力は宗教活動の他に、強訴、焼き討ち、金貸し、荘園経営、裁判、貿易と様々な活動を行った。利権争いに精を出し、ビジネス上のライバルは容赦なく叩き潰すといった血生臭い一面があった。そんな中世寺社勢力の筆頭に、比叡山延暦寺と興福寺の南都北嶺があった。
その巨大な寺社勢力に対抗した宗教が中世にあった。鎌倉時代に登場した禅宗である。栄西がはじめた臨済宗は鎌倉幕府の保護のもと勢力を伸ばし、室町時代も幕府の保護を受け勢力を拡大した。
一般的に、臨済宗が広まったのは栄西の説く仏教の教えが武士層に受け入れられたからと言われている。自分も高校日本史でそう習った。それもあるだろうが実際のところは、中国大陸との貿易で儲けた一部を幕府に献上し、幕府から保護されたのが台頭した理由とある(上念司『経済で読み解く日本史 室町・戦国時代』を参照)。幕府は臨済宗の貿易を保護し、臨済宗は貿易のキックバックをするという関係があり、それが室町時代も続いたのだ。
寺社が中国大陸との貿易で稼ぐのは、延暦寺が既にやっており、それゆえ延暦寺は強大だった。朝廷との強い結びのつきのある延暦寺がこれ以上強くなると困る幕府は、延暦寺に対抗し得る寺社をつくり、それに延暦寺を牽制させようと考えた。そうしてできたのが、臨済宗だった。
(大陸との貿易がそれほど儲かるものだったのかは、次の記事で書いているのでそちらを参照されたい)
鎌倉幕府がやった臨済宗の保護は室町幕府も引き継いだ。ただ、鎌倉幕府と室町幕府は北条と足利といった家柄も、鎌倉と京といった政治の場も違うので、鎌倉期の臨済宗と室町期のそれとは別と考えるべきだろう。五山制度というヒエラルキーがあったのは両時代同じだが、室町期の方が臨済宗が隆盛したので京都五山(以下五山)の方が鎌倉五山よりも勢力が強かったと言える。
その五山の第一が天龍寺である。別格として天龍寺の上には南禅寺があるが、それでも禅宗ならびに臨済宗の中では一番といっていいほどの力を持った寺院である。それほどの力があったは、天龍寺をつくった夢窓疎石が大きな影響力を持っていただった。
夢窓疎石は、鎌倉幕府最後の得宗北条高時、建武の新政をやった後醍醐天皇、室町幕府を開いた足利尊氏、尊氏の弟で副将軍だった足利直義と、時の権力者すべてに帰依されるほどの人物だったという。
美濃や土佐、東北から関東一円まで行脚しながら、各地に革新的な庭園を残した夢窓疎石の、最も晩年に近い作品が天龍寺の庭園といわれています。一説には枯山水も夢窓疎石がはじめたものと言われている。
そんな夢窓疎石が造った曹源池の日本庭園は有名で、多くの観光客がこれに観に天龍寺に訪れる。
(曹源池についても別の記事で紹介しているのでそちらを参照されたい)
曹源池を眺めたり天龍寺の境内を歩けば室町時代の天龍寺の隆盛を感じられるかと思い2022年の春に訪れたが、境内からは当時の凄さは感じられなかった。しかし、渡月橋を歩いた時にそれを実感することができた。
渡月橋の上から北を向くと左に嵐山が、右に愛宕山が見える。愛宕山の手間に亀山公園があるが、ここが室町時代は天龍寺の境内だったという。かつては境内に150もの堂塔が並んでいたという。
夢窓疎石は渡月橋(当時は現在よりも北に架かっていた)や桂川、嵐山・亀山などを含む壮大な空間を天龍寺の境地としたというから、かつては桂川の水運も嵐山・亀山の植林も天龍寺のものだったと考えられる。
そんな景色を見ると、天龍寺がどれほど力を持っていたかが分かるし、同時に中世の寺社勢力の強さを知ることができる。
参考文献
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