【京都府・滋賀県】日本初の車道 車石 江戸時代の旧東海道 京津街道に敷かれた牛車専用道路

京都府

江戸時代、京都と大津を結ぶ京津街道には約12キロにわたり車石という、石が敷かれた牛車専用の車道があった。
車石は日本初の車専用道路であり、当時画期的なものだった。

近代になるまで日本では舗装された道路が発達せず、また馬車などの人力以外の荷車が普及しなかったが、そんな江戸時代に、京都に牛車専用の車道が造られ、牛車が往来したことは非常に興味深いものがある。

当時の道は土だったので雨が降るとぬかるみ、牛車が立ち往生しので、頑丈で厚みのある花崗岩を道に敷き、牛車の通行を助けた。
多い時は1日60~70輌の牛車が通り、牛車の通行により硬い石が擦り減り凹んだ。

荷車の車輪はこのような形だったようだ。

荷車はイメージで実際に使われていたものではなく、当時の荷車は9俵の米俵を運び、その重さは540kgあったようだが、車体はもう少し短かったと思われる。

面白いのが、人や馬の通る人馬道より一段低い所に車石が設けられた点だろう。
急な峠道を少しでも緩やかにして牛に大きな負担をかけないようにするためと、説明板にある。

牛は臆病で繊細な動物で直ぐに暴れるため、牛を落ち着かせるため、また人に危害が及ばないように道を分けているともされている(『日本史の謎は「地形」で解ける』)。

人馬道には常夜燈が建てられ、暗くなっても牛車が通れるようになっていた。
一車線だったため、午前と午後で方向を逆転させる一方通行の規制もあったらしい。
※出典:山田邦和『京都知られざる歴史探検 上』

車石は、江戸時代の後期にできたが、牛車の通る車道自体は、日ノ岡峠では宝永3年(1706年)には既にできていて、逢坂峠ではそれ以前の元禄年間に既にあった。
※出典:『京都の歴史を歩く』
※元禄年間:1688年から1704年までの期間

車石が敷かれていた東海道では、かつては松並木が植えられており、道筋の商家や農家が街道の整備や補修を負担した。
山科の住民にとってはそれは負担だったが、同時に、落ち葉や牛馬の糞を拾いそれを燃料や肥料に使えたので、車石の恩恵を受けていた(『京都の歴史を歩く』)。

車石を敷設した資金は、京都の心学者 脇坂義堂が文化2年(1805年)に1万両の工費を集めて大津八町筋から京都三条大橋にかけて約12kmの間に車石を敷き並べたらしい。

1800年代の1万両は6億円~10億円だろうか。
脇坂義堂が地元の豪商や住民に呼びかけて資金を調達したようだ。

京津街道の難所は京都の蹴上付近の日ノ岡峠と、大津の逢坂峠だったが、どちらも歩くと高低差がなく当時の苦労は感じられない。
江戸時代に切り下げ工事が行われ、以降その都度工事が行われ、峠の最高地点が大分低くなっているためだ。
かつては、逢坂峠は幅約4.5mのうち約2.7mが車道だったらしい。

江戸時代中期の記録によると、京都に運ばれた米93万俵のうち、22万俵が牛車によって運ばれたという。
13万俵が人により運ばれ、46万俵が牛や馬の背中に載せられて運ばれ、牛車で運ばれた米は全体の20数パーセント程度に過ぎない。

この割合は幕末になってもそれほど変わらなかったと思われ、そんなことを知ると、折角歩いたのに少し拍子抜けしてしまうが、とはいえ、12kmの道に途中大きな峠を二つも挟んで車石が敷かれ、その上を牛車が通ったことを想像すると、当時の日本にそのような線路があったことに驚きを隠せない。

車石は京津街道の他に、京都から伏見までの竹田街道と、京都から淀への鳥羽街道にもあったという(『京都知られざる歴史探検 上』)。
いずれも京都の周辺の街道だけに限られていたが、近代になるまで日本には砂利道や石畳などの一部の道路を除き、舗装された道がなく、また馬車などの人力以外の荷車が発達することがなかったのに、
車道が造られ、牛車という動力が使われたことは、やはり非常に興味深いものがある。

車石を知ったのは『日本史の謎は「地形」で解ける』を読んだのがきっかけだった。
良書なので興味のある方は是非。

参考文献
竹村公太郎『日本史の謎は「地形」で解ける 環境・民族篇』PHP文庫(2014年)

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山田邦和『京都知られざる歴史探検 上』新泉社 (2017年)

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小林丈広・高木博志・三枝暁子『京都の歴史を歩く』岩波新書 (2016年)

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