【岐阜県大垣市】江戸時代の薩摩藩士による大垣の治水工事 宝暦治水

旅の拾いもの

大垣の輪中館で知った宝暦治水について、詳しく知りたいと思い、図書館で本を3冊借りて読みました。なぜ薩摩藩士が遠い異国地の地にやってきて大規模な治水工事をし、工事が終わるまでに51名が自刃したのか、本で知ったことをまとめてみました。

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宝暦治水の概略

宝暦治水とは、1754年(宝暦4)に徳川幕府が薩摩藩に命じた治水工事です。御手伝普請という、江戸時代にあった普請の一種で、薩摩藩とは関係のない木曾三川の流れる東海地方の治水工事を、薩摩藩が費用を負担して行った工事です。

幕府が計画し薩摩藩が実行するこの工事は、現在の岐阜県・愛知県・三重県の三県にまたがる大規模なもので、東西約13km、南北約50kmにわたり、計画の時点でどれほどの費用と人員がかかるのかまったく分からないものでした。

工事が始まり蓋を開けてみれば、工事費は当初の予定を遥かに超え、宝暦5年の5月22日から1年3カ月かかり、40万両の費用がかかりました。現在の金額にして300億から400億、本によっては600億かかったとされています(注1)。遠い異国の地からやって来た薩摩藩士は947名、地元の村人や土木の専門業者ら1万人が工事に従事したとされています。

そしてこの工事中に51名の薩摩藩士が抗議のために自刃し、32名が病死し、最後に総奉行の平田靱負(ゆきえ)が工事費が膨れ上がった責任を取るかたちで自刃しました(注2)。

注1:輪中館では現在にして96億円、ネットで調べた金額だと300~400億円、2011年に出版された『週刊江戸』によると600億円とされている。

注2:参考にした3冊の資料によると自刃した薩摩藩は52名、輪中館の解説だと51名となっている。おそらく51名の薩摩藩士と平田靱負を合わせて52名が自刃して果てたと考えられる。

当時の時代背景

そのようなことが起きた背景を、当時の世の中の状況と、薩摩藩と幕府との関係、薩摩藩の内情について簡単に書いておきます。

暗い時代

江戸時代の中期、宝暦治水が行われる前の時代は享保・寛保年間でした。徳川吉宗が改革を行ったこの時期は、倹約令が出されるほど景気の良くない時期でした。幕府の税収や武士の給料、百姓の生活に直結する米価が下がる一方で物価が高騰し、吉宗の経済政策は失敗し不景気が続きました。

農村では天災と飢饉で荒廃し、人口が激減した地域は少なくありませんでした。吉宗の治世に13回もの大きな台風が襲来し、生活の大部分を農業に頼っていた当時は現在よりも更に大きな被害を被りました。

水害の後は盗賊が跋扈するなど治安が悪くなり、物価は幕府の抑制にかかわらず高騰し、享保17年には蝗害(こうがい)が起き、その後も元文2年(1737)、延享4年(1747)、寛延2年(1749)、宝暦5年(1755)と凶作が続いた時代でした。

そうしたことが続いたため、どの藩も不景気で税を重くし、その結果、一揆が増加します。藩は税収増やすために農作物の生産量の増加を目指し、治水に力を入れました。藩主導というよりは地元の百姓から治水の懇願が相次ぎ、藩がその対処に追われることになりました。

幕府と薩摩藩の関係

多くの治水工事の懇願が集まり、それを薩摩藩に押し付けたのが宝暦治水ですが、なぜ薩摩藩だったのかというと、それは幕府と薩摩藩との関係が良くなくなったからです。石高73万石の薩摩藩は、加賀藩に次ぐ大藩でした。関ヶ原合戦で家康側につかなかったため、以後江戸幕府からは警戒されていました。

8代将軍吉宗は懐柔策を取り、婚姻関係により薩摩藩との関係を良好にしようと努めましたが、9代目家重は一転して強硬策を取りました。木曾三川の治水工事を薩摩藩一藩のお手伝い普請としたのです。

普請には、幕府が工事費を全額負担する公儀普請(これは極めて稀)、幕府の負担と地元の百姓からの税で賄う国役普請、地元の百姓が全額負担する自普請、工事エリアに関係のない藩が工事費と労力を負担する御手伝普請がありました。

幕府は一番負担のある御手伝普請を、それも薩摩藩だけに命じましたが、それまでの御手伝普請は数藩が参加し、工区・費用を分担していました。幕府がこれほどまでの強硬策に出たのは、低下していた威信を恐れて専制強化に踏み切った、薩摩藩が恐れられていた、家重が父親の政策に反発した、家重が暗愚だったなどの理由があるようです。

薩摩藩の実情

薩摩藩は表高は73万石でしたが、実際の石高は40万に満たない藩でした。そのため、他藩と同様に普請や参勤交代による出費に苦しみ、江戸・大坂の商人、地元の商人に多額の借金がありました。

しかし幕府は、領内の奄美諸島で栽培するサトウキビの収益が表高よりもあり、薩摩藩は相当のお金を貯め込んでいると警戒していました。木曾三川の工事は薩摩藩の財力を削る格好の事業と考え、普請を命じました。

実際は薩摩藩の財政は既に66万両(約900億円)の借金があり、毎年利子だけでも5万両(75億円)の支払いがある状況でした。木曾三川工事は薩摩藩にとって、藩を潰しかねない災難でした。藩内では「これは薩摩藩を滅ぼすための幕府の陰謀だ」「断固徹底抗戦だ」との声が多く、その反対派を何とか抑え、幕府の命に従うことにしました。

膨れ上がった工費

こうして薩摩藩は御手伝普請を引き受けますが、当初、工事の詳細は後日と幕府に言われ、幾らくらいかかるのか分かりませんでした。その後の試算で工事費用は約8万両(約120億円)と算出されましたが、数日後、幕府から更に詳しい話を聞くと、10万両、15万両になる見込みとなりました。

工事は4工区に分かれ、春と秋に行われましたが、秋の工事は長良川と揖斐川の合流する油島に堤を造る難工事が行われ、工事のやり直しにより工費が増え続け、蓋を開けてみれば40万両(約600億円)もの費用がかかりました。

そうなったのは、工事自体が前代未聞の規模で計画を立てられなかったのと、住民の要望工事がいざ始まると、地元の住民から「ここもやってくれ」「あそこもやってくれ」「もっと頑丈にしてくれ」と要求が増え、それを幕府がのみ、工事が増えました。工費は薩摩藩が払うので幕府にとっては工事が増えることは住民の不満を和らげるのと薩摩藩を弱体化させるのに好都合でした。

こうして40万両もの工費がかかりましたが、総奉行の平田靱負は当初の見積もり8万両を遥かに超える工費の責任を取る形で、工事の検分が無事終わってから美濃の地で自刃して果てました。

下級藩士の生活と赤痢

宝暦治水では薩摩藩から947人がやってきました。工事の初めは土木専門家を雇うことが禁じられ、地元の村人を雇いましたが彼らの本業の農業に支障が出てはならぬということで、重労働は薩摩藩士が引き受けました。

住処は、地元の農民の家に分散して寄宿しましたが、幕府から食事は「有り合わせの品で一汁一菜」とのお達しがありました。不景気だから倹約しろという時代とはいえ、肉体労働をするには栄養価の低いものでした。

お酒を出すのも禁止され、掘っ立て小屋に住む下級の藩士は体力が日に日に弱まり病気にかかる者が増えました。そんな時に、衛生環境も悪い下級藩士の住処では赤痢が広がり、工事期間中に32名の藩士が病死しました。

これは本に書かれていたことではありませんが、幕府は薩摩藩が工事の際に身に着ける蓑などの作業着なども、住民に対して必要以上に安く売るなと命じたなんて話がネットでは書かれていました。

命令があったということは、実際は村人からは工事を感謝され安く譲り受けていたのかもしれず、実際のところは分かりませんが、そうした工事の障害となるようなことを幕府は薩摩藩に強要していた可能性があります。

江戸幕府の薩摩藩に対する嫌がらせ

これも実際のところは分かりませんが、読んだ本やネットでは、幕府による工事中の薩摩藩士への嫌がらせが酷かったことが書かれています。「そんなことも解らんのか」「愚図だノロマだ」と罵声が飛んだことが書かれている本もありました(『箱根用水と宝暦治水物語』)。

工事した所が翌日壊れていて、おかしいと思い夜中に見張っていると、幕府の役人が連れてきた工夫に指示して工事した所を壊させ、それに激高した薩摩藩士が抗議のために自刃したと書かれたネットの記事もありました。薩摩藩士が朝現場に行くと、前日の夕方まで岸に結びつけていた、調達してきた木や紐などの工事に必要なものが川に流れており、幕府の役人が夜中の間に切って流したなんてことも書かれていました。

幕府の嫌がらせがあったと前提すると、幕府は先述のように間接的に薩摩藩の工事を邪魔するだけでなく、直接工事現場でも邪魔をして精神的負担を与え工期を遅らせ、工費の増大をしたことになります。

薩摩藩士が自刃したのが一番多かった時期は、春の工事と秋の工事の間の期間でした。この時期は秋の工事に向けて準備する時期でしたが、当初予定していた石材を調達できなくなるという事態が起こりました。石を積み出そうとしたら、突然村人が拒否し、石を運べなくなってしまったのです。これも幕府の嫌がらせなのでしょうか。

また長雨で洪水がしばしば起き、春の工事で修復した堤防が崩れ、その修復に駆り出され、資材の調達に対応できなくなることも起きました。修復すればまた新たな資材な必要になり、秋の工事に必要な石材が調達できない日が続き、日増しに薩摩藩士の精神的負担が増えていったことが考えられます。

本来であれば春の工事で疲れた体を癒す時期に、こうした事態が起き、薩摩藩士らは相当のプレッシャーを幕府の役人から受けたのではないでしょうか。薩摩藩士の自刃した数は、春の工事中に2名、秋の工事中に12名、その間の準備期間中に38名とされています(『宝暦治水』では合計52名の薩摩藩士が自刃したとしています)。

また、秋の工事では土木工事に長けた専門の業者を使いましたが、これも薩摩藩士の負担を増やすことにもなりました。春の工事は地元の村人を使う村方請負でしたが、秋は都市部から来た町方請負に切り替えられました。難工事なので専門家の方が工事はスムーズになりますが、その分工費は増え、また収入の減った村人から反発され、薩摩藩士はその間に立たされました。そうしたことも春と秋の工事の間に多くの薩摩藩士が自刃したことと関係していると考えられます。

自刃を怪我扱いした薩摩藩

51名(本によっては52名)の薩摩藩士が自刃したことは、薩摩藩では伏せられました。抗議のための切腹が明るみになったら、幕府からどんな仕打ちが来るか分からないと案じて、自刃した藩士らは怪我または病死として扱われました。腰に付けているもの=刀で怪我をして死亡したことにし、薩摩藩士らも口を閉ざしました。

薩摩藩による自刃が明るみになったのは、明治時代になってから西濃地域の住民らによって声が挙げられたからです。明治期は工事に尽力した薩摩藩士への記念の碑が建てられ、薩摩藩士らを祀る治水神社が建てられました。

宝暦治水の「明」の部分

暗い話ばかり続きましたが、宝暦治水は薩摩藩士にとって治水の技術を学ぶ場でもありました。専門家による大規模な治水工事を目の前で見ることができ、これまでにない経験値を積むことになりました。

また物資の調達や運搬、大人数を使った工事、事業計画など、貴重な体験を積める事業でした。『宝暦治水』では、異常な死者数と膨大な工費という暗の部分だけでなく、市場の原理や治水の技術、工事の進め方など、貴重な体験を習得するといった明の部分もあったと書いています。

感想

以上、宝暦治水について書かれた3冊の本を読んで知ったことをまとめてみましたが、結局のところ真実は分かりませんでした。史料がないので幕府の嫌がらせが本当にあったのか分かりませんし、史料に載っていないからといって無かったともいえません。

個人的に宝暦治水を知るうえで一番知りたかったことは、幕府の嫌がらせが本当にあったのかということです。本当なら、後の明治維新の倒幕の際に薩摩藩士らが行った幕府軍への酷い仕打ちも理解ができます。薩長が幕府軍にしたえげつない仕打ちも、それなりの怨恨があってのことだと分かります。

嫌がらせなどなかったとすると、当時の武士は工期の延期や資材の調達が困難になると、その場を打開するため、もしくは責任を取るために切腹する習慣があったことになります。実際に、宝暦治水とは関係のない工事で、伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)という人物が切腹しています。

輪中館の展示にありましたが、宝暦治水の後の時代の天明5年(1785)に、大垣藩士の伊藤伝右衛門は輪中に溜まる水を逃して田畑の収穫量を上げるために揖斐川の下に地下水路を造り、他の場所に逃す工事を完成させました。彼が造った水路は明治38年(1905)まで活躍しましたが、工事で当初の予算よりも多くの工費を使ったため、その責任を取り自刃しました。

切腹した理由は、予算内に工事を終わらせるために公のお金を私的に使ったとも、工事の成功を妬んだ人からの迫害がありその責任を一人で取ったともいわれています。難工事に挑み、工期通りにいかないことは想定内ではあるけれども誰かが責任を取らねばならない、ということが江戸時代の当時の役人(藩士)にあったのではないでしょうか。

そうであるのなら、宝暦治水と同じように御手伝普請が行われた場所でも、同様のことがあったことになります。

輪中館で知った宝暦治水は、50名以上の薩摩藩士が自刃するというインパクトのある内容でしたが、それを幕府の嫌がらせだと決めつけるのも安易にしたくないものです。時代劇にあるような幕府の役人による外様への高圧的な態度は一般的なものだったのかわかりませんし、そういう描写は明治政府による江戸幕府を悪者にしようとするプロパガンダともいえます。

現在より命の価値が低く、切腹が日常茶飯事に起こるものだったのかもしれません。だから諸藩では切腹を禁じたり、切腹したら家禄を没収すると決めたのかもしれません。当時はどのような社会で、どのような価値観だったのでしょうか。そこのところが一番知りたいことでした。

本には薩摩藩は自刃した藩士らの死を隠したことが書かれていました。抗議のために切腹したことが幕府に知れたら何をされるか分からないからです。ですが、それでは幕府に対して抗議になっていないのではないでしょうか。

現場の役人に腹を切るのを見せるのが抗議でしょう。幕府側ではそれを記録しなかったのでしょうか。武士の暗黙のルールがあって、そうした抗議の切腹は記録せず、現場の役人だけに留めていたのでしょうか。抗議の切腹が当たり前のことで、いちいち記録することでもなかったのでしょうか。江戸時代はそういう時代だったのでしょうか。

そのあたりのことを知れなかったのは残念でした。

本を読んで知ったこと

最後に補足として、本を読んで知ったことを書きたいと思います。

本を読んで普請について考えが変わりました。普請は幕府が軍役の代わりに各藩に定期的に課すものだと思っていましたが、公共事業の一面もあったことが宝暦治水の本を読んで知りました。

治水工事の行われる場所は水害の被害を受け、作物が駄目になった地域です。生活が困難になり、翌年の作物の収穫まで生活するのが困難な地域です。そうした所で治水事業を行うことで、住民は工事に参加し日当をもらい、また薩摩藩士や専門の土木業者を泊めてその世話をしてお金を得ました。

これは今でいうところの公共事業でしょう。

また秋の工事では村方請負から専門業者の町方請負に切り替えられました。治水の専門業者がいたことも新しく知ったことでした。

村方だけでなく専門の町方と共に治水工事をすることは薩摩藩士にとって大きなメリットがあったのではないでしょうか。最新の、専門家による治水工事、それも難関とされているものを目の当たりにして、そのスキルを学んだことは容易に想像できます。

『宝暦治水』では、宝暦治水は薩摩藩にとって暗の部分だけでなく明の部分もあったとし、この大掛かりの工事で薩摩藩が得たものも大きかったとしています。

江戸時代は天下泰平の世となり、村や藩ごとの争論は絶えませんでしたが、戦国期よりも治水をはじめとした大規模な土木工事が行わるようになりました。普請により異国の地の異質な地形を工事することで、普請を受けた藩も学ぶことが大いにあったと思われます。

『週刊江戸52 宝暦治水工事と薩摩藩』には、同時期の同じような御手伝普請に大和川付け替え工事と戌の満水復旧普請があったことが紹介されています。前者は、宝永元年(1704)に行われた公儀普請と御手伝普請の混合したもので、姫路藩、明石藩、岸和田藩、三田藩が担当した、現在の奈良と大阪を流れる大和川の工事です。後者は、寛保2年(1742)に岡山藩、長州藩、熊本藩、福山藩など西国10藩が担当した御手伝普請で、千曲川流域の工事です。

これらの御手伝普請についても、上記の切腹のことも含めて本を読んでみたいところです。

参考文献
『週刊江戸52宝暦治水工事と薩摩藩』デアゴスティーニ(2011年)
濱田進『箱根用水と宝暦治水物語』新人物往来社(1993年)
牛島正『歴史を動かした治水プロジェクト宝暦治水』風媒社 (2007年)

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