【散策記】日本一周補完の旅1日目 水の都大垣の歴史

岐阜県
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水の都大垣

2022年3月に電車日本一周補完の旅をしました。以前電車日本一周をした時に回れなかった場所に行く約30日間の電車の旅です。旅の1日目は岐阜県大垣に行きました。この日は大阪に行く日でしたが、大垣市にある輪中館に行きたかったので途中下車しました。

大垣は水の都として知られている、豊富な水に恵まれた土地です。しかし水が豊富ということは同時に水害が多いということでもあり、頻繁に洪水が起こる地域でした。西濃地域に暮らす人々は、否が応でも起こる洪水に対して何とか生きていこうと、家の周りに堤防を築く輪中という独自の生活スタイルを築きました。

そんな輪中のことを詳しく知りたいと思い、輪中館に行きました。輪中館について書く前に、その前に大垣についてもう少し、備忘録を兼ねて書いておきたいと思います。

大垣の豊富な水と発展の歴史

水都大垣は、地下からの湧水があふれ出す場所が市内に20カ所ほどある、全国でも有数の自噴水のある町です。良質で豊富な地下水に恵まれた土地故に水の都と呼ばれています。

湧水を使った水まんじゅうは大垣名物として広く知られており、夏には涼を求めて各地から買いに来る人が絶えない夏の風物詩になっています。水まんじゅうは金蝶園(きんちょうえん)総本家で買えますが、販売しているのは4月~9月ということで旅をした時は売っていませんでした。金蝶園は大垣城の近くにもあります。

大垣は、江戸時代は赤坂宿があり人の往来が盛んで、また船着き場が整備され水運が盛んでした。水運の集積地だった大垣には木曽や東濃の檜が手に入りやすかったことから、桝が生産されるようになり、今でも大垣は全国の桝の生産の8割を占めています。近くにある金生山(かなぶやま)では石灰岩や大理石が採れ、その加工も近世は盛んに行われたといいます。

松尾芭蕉が奥の細道の旅を終えた場所としても知られており、奥の細道むすびの地記念館があり、その近くには船町港跡があり、桜の季節には水路を舟で、GWの新緑の季節には桶で川下りを楽しめます。大垣城や大垣市郷土館もあるので散策には絶好の場所と思い、少し水路の周りを歩いてみましたが、あいにく3月の中旬は水の少ない寂しい季節で、散歩を楽しむには季節を選ぶ場所でした。初夏か夏の時期でしょうか、その時は湧き水マップを片手に市内を歩いてみるのが面白そうです。

豊かな水の恩恵を受けてきた大垣ですが、明治末期~大正時代あたりから工業都市として成長します。水が豊富な大垣では台風や長雨の度に洪水が起こり、長い間恒常的に起こる水害に悩まされてきましたが、明治の後半に治水事業が完成すると、一気に洪水が減りました。

それからは豊富な水を工業用水や水力発電に利用しようとする工業誘致運動が盛んになり、繊維・紡績・化学工業の工場が建てられ、水力発電所ができ、工業化が進みました。この動きは戦後もますます増え、高度成長期の昭和35年から更に工場が増え、それに伴い地下水の利用は増加の一途を辿ります。

工業用だけでなく、他にも一般家庭の生活用や農業用、商店街用に地下水の利用は増加し、井戸が増設されますが、昭和50年代以降に遂に地下水が急激に減少し、次々と自噴水や井戸はなくなっていきました。今では市内で見られる自噴水は貴重なものとされているようです。

散策をした時はそんな状況を語るのかのような、水の乏しい寂しい雰囲気でした。しかしそれは同時に、近現代の大垣の経済発展を支えてきた姿でもあるのです。

輪中に特化した資料館:輪中館と輪中生活館

さて、大垣駅から輪中館に向かいます。養老鉄道に乗り換えて友江駅で降り、数分歩くと輪中館があります。

こちらの資料館は大変見ごたえがあり、しかも無料です。じっくりパネルを見ると3時間は欲しいくらいのボリュームのある展示でした。先ほど紹介した大垣の工業化に関することもこちらの資料館で学びました。

館内ではパネルをプリントアウトした用紙があり、自由に持ち帰れるようになっています。訪れた時は13枚も資料をもらえたのですが、とても勉強になります。博物館や資料館で観たものは時間が経つと忘れてしまうので、こうした配慮のある所は好感がもてます。

館内は写真撮影可ですが、撮った写真はあくまで個人で楽しむ範囲内での利用に限られるということで、残念ながらブログでご紹介することはできません。知った内容は、これから行く輪中生活館の写真に添えて紹介したいと思います。

輪中館から5分ほど歩いた所には輪中生活館があります。こちらは原則土日祝日のみの開館ですが、輪中館の開いている日であれば、電話で連絡すれば平日でも対応してくれるようです。輪中館の休館日は火曜日です(2022年4月現在)。

門をくぐると正面に母屋、右に納屋があります。母屋の中を見学でき、靴を脱いで家の中に上がることができます。納屋は施設のスタッフさんの駐在所になっています。その間には柿の木が植えられていますが、これは食用だけでなく、洪水時に舟を繋げておくために植えられているのだそうです。

母屋の奥には水屋があり、一段高い所に階段でつながっています。

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中は広々としています。

輪中

母屋に入ると、正面に輪中の模型があります。家の敷地の周りの土を掘り、土塁を築き、敷地の更に高い所に石垣を築きそこに避難用の住居や蔵が建てられています。このように家の周りを堤防で囲んでいる場所を輪中といいます。

土の掘られた所は水路や池となり、そこでは魚や貝が住み、それを採り暮らしていました。水が引かない時期は舟で行き来したり、舟を使って農業をしていたことが、模型とその解説から分かります。

解説を書いておきます。

「構堀(かまえぼり)」に囲まれた輪中の民家

低湿な輪中地域の家々は少しでも洪水の被害を防ぐため、周囲より高い所や人工的に盛り土をした上に立てられているものが多くあります。水位が高く低湿な土地で、彩度した跡地が池や沼になっているものを「堀つぶれ」と呼んでいます。この家は、周りを「堀つぶれ」で囲まれているため、周囲から土を採ったことが分かります。屋敷の周囲に見られるこのような堀を「構堀(かまえぼり)」といい、宅地に人工的に盛り土をした跡です。家の前の堀にある舟「田舟」は当時重要な交通手段でした。「構堀」から無数に水路に通じ、家の玄関から舟に乗って行き交った水路交通の姿をよく表しています。また、このような堀が人々の重要な食糧であったフナ、コイなど淡水魚の供給源であったのです。

輪中の地域では、住んでいる土地や家の周りを盛り土をして高くするように、田畑も盛り土で高くしました。これを「堀田(ほりた)」といいます。土を掘られて低くなり水が溜まった場所(堀り潰れといいますが)には、多くの魚や貝が集まり、漁場となりました。池や遊水地のように四方が囲まれた所では、川魚や貝が飼育されていたそうです。輪中周辺の川には、コイ・フナ・ウナギ・ナマズ・ハヤ・モロコ・ドジョウ・ライギョ・カワエビ・カニ・シジミ・カラスガイと、多様な魚介類が生息し、住民の貴重なたんぱく源になりました。

こうして高台に造った堀田(ほりた)は安定した収獲をもたらしたといいます。しかし、それは同時に耕地面積を狭めることにもなります。堀田(ほりた)が開発されるようになった江戸時代以降、農作物の収入が激減した場所もあり、輪中館でもらってきた資料には「慶安2年(1649年)に600石を上納した村が90年後には、わずか17石に減少するという異常な状態」が記録として残されており、多少の相違はあれ輪中地域では作物の収穫減が起こったと考えられます。

単純に一方の田畑の土をもう一方に乗せれば、耕地面積が半分になるので、そのようなことが起こったのも頷けます。

そしてこの堀田(ほりた)は定期的にメンテナンスをしないといけないものでした。毎年水底の土をすくいだして田畑に盛らないといけなかったようです。水の底から土をすくう特殊な農具を使い泥土をすくい上げ、それを田畑やその周りに乗せる作業は重労働でした。昭和30年代半ばまで、そうしたことが行われていたようです。

母屋の玄関の近くには上げ舟があります。浸水時に利用できるように柱に吊るされています。家によっては軒下に上げ舟を吊すこともあり、洪水が起こった時やその後はこれが重要な移動手段となりました。

ハレの日の食事

真ん中の押し寿司はモロコ寿しと呼ばれる、西濃地域の郷土料理です。甘辛く似たモコロ(コイ科の小魚)を酢飯の上の載せた押し寿司で、お祭りや法事の時のおもてなし料理だったそうです。

仏壇

家によっては上げ仏壇といって、洪水時に2階や屋根裏に仏壇を上げるようにしている家もありました。鎖やロープを仏壇に結んで滑車を使って天井に上げる仕組みになっています。上げ仏壇の実物は輪中館で見ることができます。輪中館の仏壇には鉄の鎖が付いていました。

水屋

水屋を覗いてみましょう。水屋には住居式のものや土蔵式のものがあり、洪水時に避難して生活する建物や食料や財産、文書を保管する蔵があります。住居の更に高い場所に設けられています。この水屋と堀田(ほりた)が輪中を代表する景観といわれており、輪中を説明する際に欠かせない独特のものなのです。

本に書いてあったのですが、水害時の避難小屋は利根川流域をはじめ各地にあります。しかし輪中の水屋は他の地域の避難小屋よりも規模が大きく、それが特徴なのだそうです(『輪中(わじゅう) 洪水と人間 その相克の歴史 日本の歴史地理10』伊藤安男・青木伸好著を参照)。

一度洪水が起こり水が母屋に浸水すると、この水屋に避難し水が引くまで生活し、舟で移動して他の家と連絡を取っていました。一口に水屋といっても、住居式・倉庫式・土蔵式、そしてそれらを組み合わせたものがありました。住居式水屋にはトイレがあり、倉庫式水屋には生活に必要な米や麦などの穀物、味噌や醤油や漬物や梅干しなどが貯蔵され、土蔵式水屋には家宝や家財、文書が保管されたいたのだそうです。

外から見るとそれほどでもありませんが、中から階段を上がると母屋よりもかなり高い場所にあることが分かります。

奥には土蔵式の水屋が見えます。

上手く撮れませんでしたが、外から見るとこのようになっています。

1.6m高くなっているようです。

こちらの家では水屋よりも更に高い場所にも別の蔵があったようです。

輪中生活館では実際の住居式水屋や上げ舟を見ることができ、水害時に当時にこの家の住人がどのような避難生活をしたのを知ることができます。とても勉強になります。輪中館でもらった資料によると、水屋は昭和47年の調査で大垣市内に216棟あったとあります。老朽化や維持の困難により年々減ってはいるのでしょうが、極力残すようにしているのではないでしょうか。治水が完成したとされる明治末期以降、水害がまったくなくなった訳ではなく昭和51年には洪水が大垣市を襲っています。先祖代々洪水と付き合い、その怖さを知っている住民の方たちは先人の知恵の詰まった高台にある水屋の重要性を十分に知っているのでしょう。

旅の後から知りましたが、この水屋は大垣市の釜笛地域に今でも多く残されているのだそうです。輪中生活館から線路を挟んで少し歩いた所になります。

Googleマップ 地図データ ©2022

百姓にとっての輪中とは

さて、いろいろなことを知れましたが、輪中生活館で知れたことはあくまで地主の生活です。地主・豪農は輪中で暮らす人たちの何割なのでしょうか。1~2割なのではないでしょうか。その他大勢の人たちは洪水が起きた時にどのようにしていたのでしょうか。それは残念ながら輪中館・輪中生活館では知ることができませんでした。

しかし読んだ本によると、水屋も上げ舟も持たない一般の百姓たちは、洪水が起きれば水が引くまで屋根裏で蛇やネズミとやり過ごし、また命塚(いのちづか)という高台にある共同の避難場所で体を寄せ合いながら水が引くのをやり過ごしとあります(『輪中(わじゅう) 洪水と人間 その相克の歴史 日本の歴史地理10』伊藤安男・青木伸好著より)。

この地に住む大勢の住民、一般の人にとっての輪中での生活はそうしたものだったようです。この本だったか忘れましたが、水が引く時は建物が倒壊する危険が大きく、洪水が来た時は住居が壊れなくても水が引いた時に壊れてしまうことが少なくなかったようです。一度洪水が起きれば住居は泥や石、木々で汚れ、元の生活に戻すのには時間がかかったでしょう。田畑の排水作業にも追われたことでしょう。そのあたりのことを今後本などで知れればと思いました。

そもそもなぜ長期的に洪水に悩まされてきたのか

輪中館の展示で印象的だったのが、大垣が洪水常襲地帯であるのは「差別的な治水策」による要因も挙げられるという展示でした。先述の通り、大垣に洪水が多く輪中が形成されたのは、揖斐川をはじめとした木曾三川の中・下流域に大垣に位置しているからです。

木曾三川の上流の地域は多雨地帯で降水量が多いので、その中・下流域は洪水が起こりやすいのです。しかも揖斐川は木曾三川の中でも水の量が多く、流れる水の量が多い時と少ない時の差が一番ある川です(流れる水の量の差が大きければ大きいほど危険な川なのだそうです)。そうした理由で揖斐川の流域にある大垣は洪水多発地帯なのです。

しかし、大垣で洪水が多いのはそうした地理的要因だけではないということが、輪中館の展示にありました。木曾三川の治水対策によって大垣に洪水が多くなったことが、輪中館で解説されていました。そのことについて少し説明したいと思います。

下の地図から分かるように、大垣市は揖斐川の流域に位置しています。

Googleマップ 地図データ ©2022

揖斐川が増水で氾濫すれば水が大垣に流れてくる訳ですが、揖斐川の右にある長良川が氾濫すれば揖斐川も氾濫する危険が増します。揖斐川よりも東の長良川の方が高い場所にあるからです。実際に昭和51年に大垣を襲った水害は長良川の氾濫が原因でした。そして長良川の東の更に高い所には木曽川があり、木曽川が氾濫すれば同様のことが起こります。

元々大垣はこうした地形であり、低地の大垣で水害が多発することは仕方のないことだと、これまでは思っていました。しかし輪中館の展示で、この高低差は人為的に、意図的に造られた側面もあることを知りました。それは名古屋城(名古屋城の城下町)に水が流れないようするためです。

Googleマップ 地図データ ©2022

名古屋城は徳川幕府のお手伝い普請によってできた城で、関ヶ原の戦いで徳川家康が天下をとってから造られた城です。徳川御三家の一つ尾張藩の本拠地ということで、城下町が整備され武士はもちろんのこと、清州にいた住民は町ごと名古屋に引っ越ししました。清州にあったほとんどの寺社、そして商工業者も移住し、「清州越し」と呼ばれました。

その際に西国大名に対する防衛として、木曽川の犬山より下流の地域に50kmにわたる堤を造り、美濃側に対して木曽川の右岸は左岸の堤よりも3尺低くするように定めました。3尺は約90cmです。この堤(「御囲堤」というらしいのですが)が完成したのは1609年とされ、以降木曽川の右岸域は破堤の数が倍以上になります。尾張(名古屋)側の左岸の破堤が平均して10年に1度あるかないかに対して、美濃側の右岸は10回前後破堤しています。

川の堤防は右岸と左岸で強度が違うことは知られています。東京を例に挙げると、荒川は都心の方の堤防を高く厚くしています。都心の外の右岸の方はそれよりも堤防が薄く低くなっていて、左岸に水が浸水する前に右岸に水が流れ込むようになっています。「差別的」ともいえますが、こうした水を片方に逃す治水は戦国時代から行われており(それより更に前からと思われますが)、水を完全にコントロールできない限りは基本的には執られうる治水の政策ともいえます。

江戸時代の尾張藩の政策により大垣は水害の多い土地となり、以後洪水常襲地となりました。

江戸時代の治水事業

輪中館では、こうした考えさせられる展示を見ることができましたが、印象的な展示は他にもありました。それは江戸時代の治水事業です。輪中館では伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)という一人の人物を紹介しています。輪中に溜まる水を逃して田畑の収穫量を上げるために、揖斐川の下に地下水路を造り、他の場所に逃す工事をした大垣藩士です。この工事は完成し、彼が天明5年(1785)に造った水路は明治38年(1905)まで活躍しましたが、この工事の完成後に伊藤伝右衛門は自刃しました。

それは初めの工事が失敗に終わり予算よりも多くのお金がかかったからとも、予算内に工事を終わらせるために公のお金を私的に使ったからともいわれています。工事の成功を妬んだ人からの迫害があり、責任を一人でとったともいわれています。難工事に挑み、工期通りにいかないことは想定内ではあるけれども誰かが責任を取らねばならない、ということが当時の役人(藩士)にあったことは、江戸時代の治水事業を考える上で忘れてはならない要素に思えます。

そして工事の成功を妬む人からの迫害…。これも治水事業の難しさを表しています。当時の治水事業は、川の流域に住む人たち全員の利害が一致するものではありませんでした。川上の住民にとっては川下の土地は低い方が自分にとってはいい訳で、川の右岸の住民にとっては川の左岸の土地が低い方がいい訳です。川下の住民や川の左岸の住民が治水工事をしてその土地を高くしたら、それまで安全だった川上や川の右岸の住民は洪水のリスクが増えます。そうしたことで常に周辺住民の争いがあり(山論ならぬ水論というらしいです)、なかなかうまくいかないものでした。

そうした難しい工事を任され、失敗しても切腹、成功しても切腹ということが当時はまかり通っていたことを知れたのは、いい体験でした。治水事業はどこかしらの住民が犠牲を払うものという構図は、現在でも変わらないような気がします、勉強不足で詳しいことは分かりませんが。先日荒川治水館に行った時に、都心の荒川流域の安全は上流・中流のおかげでもあることを知りました。都心の堤防や水門も勿論水害を防いでいますがそれはあくまでも最終手段であり、そうならないように中流には遊水地が設けられ、上流にはダムが設けられています。都心の荒川下流域の安全は、荒川の上流・中流のおかげでもあるのです。

薩摩藩の手伝普請 宝暦治水

川の上流・下流、右岸・左岸の利害調整をしながら行う治水事業ですが、木曾三川の治水工事という大規模なものが薩摩藩の手によって行われたことも、輪中館では伝えています。なぜ薩摩藩が…。これは西国大名の筆頭であった薩摩藩の勢力を弱めるのが目的だったようです。徳川幕府によって木曽川の右岸に堤が築かれたせいで木曾川の左岸や大垣では洪水が以前よりも多発するようになりましたが、それを改善するために木曾三川を分流させる大規模な工事が薩摩藩に命じられたのです。

この工事は宝暦4年(1754)の2月に着手され、翌年の宝暦5年(1755)の3月に完成しましたが、40万両(輪中館の展示によれば現在の金額にして約96億円ですが、本やネットでは300億~400億、多いものだと600億と書かれているものもあります)もの費用が投じられた難工事でした。幕府の方針が度々変更され、その度に計画の変更を余儀なくされ、大雨により工事のやり直しが起こり困難を極めたようです。そして驚くことに、故郷を離れて工事に従事した薩摩藩の51名が割腹し、32名の病死者を出したのでした。83名の死者を出した責任と多額の借金を残した責任を一身に負い、総奉行であった平田靭負(ひらたゆきえ)は自刃したと伝えられています。

輪中館ではそれ以上のことは記しておらず、Wikipediaに書かれている内容になりますが、徳川幕府は手伝普請の経費は全て薩摩藩の負担とし、大工などの専門の者を雇うことを禁止し、重労働をさせておきながらも1日1汁の倹約を命じ、地元の住民に蓑や藁を安価で売らぬように命じたとあります。薩摩藩士による初めの切腹は、幕府の役人が地元の住民にでしょうか、堤を破壊するように命じ、3回も堤を壊したたことへの抗議であり、以後割腹自殺での抗議は続き、病死者は食料不足で体力が弱った藩士たちに赤痢が流行ったためであると、Wikipediaには書かれています。

衝撃的な内容であると同時に、これが本当だとしたら、当時はこのようなことが珍しくなかったことが分かります。徳川幕府が外様大名に対してどのようなことをしていたのか、宝暦治水からうかがい知ることができます。こうしたことは他にもあり、これが明治維新の時に薩長が徳川側の幕臣に酷い仕打ちをしたことに繋がっていることも理解できます。とはいえ、果たしてこれは本当なのかという疑問もネットにはあり、僕自身も分かりません。宝暦治水について書かれた本をこれから読んでみて判断したいところです(その後、本を読んで知ったことはこちらの記事でまとめました)。

Googleマップ 地図データ ©2022

さて、薩摩藩によって行われた宝暦治水は、大榑川(おおぐれがわ)の洗堰(あらいぜき)と油島の締め切りが大きな工事として知られています。大榑川洗堰は上の写真、油島の位置は下の写真。赤い丸の三角州の所が梅津市油島になります。平田靭負と薩摩藩士84人は梅津市油島にある治水神社(昭和13年建立)に祀られています。興味のある人はこの辺りを歩いてみるのもよさそうです。養老鉄道の多度駅から徒歩40分くらいです。

Googleマップ 地図データ ©2022
Googleマップ 地図データ ©2022

輪中館では、大垣の治水に尽くした人として、大垣の初代藩主戸田氏鉄(うじかね)と彼の治水に尽力した清水五右衛門、明治時代に治水対策に懸命に取り組んだ金森吉次郎、明治期の木曾三川分流工事を完成させたヨハネス・デレーケについても紹介しています。近世や近代の歴史が好きな人や治水に興味関心のある人は、輪中館は訪れてみて後悔のない見ごたえのある資料館だと思います。

参考文献
伊藤安男・青木伸好『輪中(わじゅう) 洪水と人間 その相克の歴史 日本の歴史地理10』学生社 (1987)

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大垣城

輪中館と輪中生活館を楽しんだ後は、大垣城へ向かいます。養老鉄道で友江駅から西大垣駅に行き(2駅目)、そこから15分歩いて大垣城へやってきました。

当初の予定では、隣にある大垣市郷土館しか時間の都合上観ることができなかったのですが、郷土館の滞在時間が短かくなったので時間ができ大垣城に入れました。

大垣市郷土館は、大垣藩を治めた戸田氏の紹介がメインで、家系図や武具の展示がありましたが写真が撮れなかったので、直ぐに出てきてしまいました。初代藩主の戸田氏鉄(うじかね)は揖斐川の下流からの逆流を防ぐ水門を造り、また7代藩主の氏教(うじのり)は揖斐川の下に木造のトンネルを通して田畑に溜まった悪水を排出する工事の、許可を出した人物だったことを輪中館で知りました。なので戸田氏に興味はあったのですが、そうした展示も見当たらなかったので、直ぐに出てきてしまいました。

大垣城の方は撮影可で、展示も多く、楽しめる内容でした。大垣城は関ヶ原の戦いの時に石田三成が入場して西軍の本拠地になった城で、そのことをメインにした展示となっています。1階には関ヶ原合戦と大垣城に関する展示、2階には武士と庶民の文化や生活に関する展示があります。

武器や鎧の展示は子供から人気がありそうです。

軍制や陣形の展示もあります。

関ヶ原合戦の展示は、戦国時代好きや戦好きの人にはたまらない展示なのではないでしょうか。

有名な関ヶ原の戦いの前には幾つもの前哨戦があり、その戦いを一つ一つ丁寧に解説しています。

当時の諸武将の予想に反して僅か半日で終わってしまった関ヶ原合戦の前には、こうした戦いがあり、様々な駆け引きがあり、状況が刻々と変化していたことを知れる展示となっています。

石田三成がどのような戦術・戦略をもっていたのかの説明も興味を誘います(閉館時間が迫っていたのでちゃんと見れませんでしたが…)。

城の4階は展望台になっています。

武士や合戦の展示だけでなく、庶民や町民の生活についてもふれています。

個人的にはお歯黒の道具は興味を惹かれました。

そして大垣城に注目したいのが、石垣に刻まれた線です。

これは明治29年の大洪水の時に浸水した高さを示すもので、当時の惨状を後世に残すために、石垣に刻まれたものです。旅の後から知りましたが、明治29年は7月と9月の2回も洪水が起きた大変な年でした。こんな場所にまで水が流れ込んできたのかと思うと、いかに悲惨な洪水だったのかがよくわかります。

さて、大垣散策を終え、大阪駅に向かいます。大垣駅から米原方面の電車に乗り、京都駅を通過して大阪に行きます。

途中草津駅で降りて、草津名物うばがもちを買いました(うばがもちはこちらで紹介しています)。

そして20時過ぎに大阪駅に到着です。この日は梅田駅の近くのホテルに泊まりました。

次回は大阪の歴史や土地を紹介します。

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