【岐阜県大垣市】洪水常襲地帯大垣で暮らす百姓たちの歴史(日本一周補完の旅1日目)

旅の拾いもの

2022年3月に電車日本一周補完の旅という29日間の長旅をしました。その1日目に岐阜県大垣に行き、輪中の資料館に行ました。資料館は輪中館と輪中生活館の二つの施設があり、どちらも充実した展示でしかも無料という、とても素晴らしい施設でした。おかげで輪中についていろいろなことを知ることができました。

ただ一つ、気になることがありました。それは洪水が起きた時に一般人がどのように生活したのかということです。資料館では洪水に対応した家づくりを知ることができましたが、それは地主の家でした。経済的に恵まれている一部の人の水防の知恵でした。

洪水が来ても避難できる立派な家も舟も持たない一般の人々は、洪水の時にどうしていたのでしょうか。そんな疑問を解決したいと思い、旅の後に輪中に関する本を読んでみました。

今回は、その時に知った輪中地帯の生活について書いてみたいと思います。この記事はあくまでメインサイトの補足です。輪中や大垣の歴史についてはメインサイトの記事で書いているので、そちらと合わせて読んでいただければと思います。

輪中に関する資料館がある友江駅
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百姓にとっての輪中とは

その他大勢の一般の人たちは洪水が起きた時にどのようにしていたのか知りたいと思い、『輪中(わじゅう) 洪水と人間 その相克の歴史 日本の歴史地理10』という本を読んでみました。するとそこには、水屋も上げ舟も持たない一般の百姓たちは、洪水が起きれば水が引くまで屋根裏で蛇やネズミとやり過ごし、また命塚(いのちづか)という高台にある共同の避難場所で体を寄せ合いながら水が引くのをやり過ごしとありました。

洪水常襲地帯だった大垣に住む大勢の住民、一般の人にとっての輪中での生活はそうしたものだったようです。別の本に書かれていましたが、洪水が起こり水が引く時は建物が倒壊する危険が大きく、洪水が来た時は住居が壊れなくても水が引いた時に壊れてしまうことが少なくなかったようです。

一度洪水が起きれば住居は泥や石、木々で汚れ、元の生活に戻すのには相当の労力と時間がかかったことが想像できます。田畑の排水作業にも追われ、百姓は洪水の度に大変な思いをしていました。

輪中生活館の展示の地主の家。家の周りを盛り土をし高くし、更に石垣で一段高くした場所に水屋を設け、洪水時に避難した。
上げ舟。母屋や軒下に舟を吊し、洪水時に避難したり外部との連絡を取る重要な手段となった。水屋も上げ舟も富裕層にあたる地主の家にしかなかった。

そもそもなぜ長期的に洪水に悩まされてきたのか

輪中館の展示で印象的だったのが、大垣が洪水常襲地帯であるのは「差別的な治水策」による要因も挙げられるという展示でした。大垣に洪水が多く輪中が形成されたのは、揖斐川をはじめとした木曾三川の中・下流域に大垣に位置しているからです。

木曾三川の上流の地域は多雨地帯で降水量が多いので、その中・下流域は洪水が起こりやすいのです。しかも揖斐川は木曾三川の中でも水の量が多く、流れる水の量が多い時と少ない時の差が一番ある川です(流れる水の量の差が大きければ大きいほど危険な川なのだそうです)。そうした理由で揖斐川の流域にある大垣は洪水多発地帯なのです。

しかし、大垣で洪水が多いのはそうした地理的要因だけではないということが、輪中館の展示にありました。木曾三川の治水対策によって大垣に洪水が多くなったことが、輪中館で解説されていました。そのことについて少し説明したいと思います。

下の地図から分かるように、大垣市は揖斐川の流域に位置しています。

Googleマップ 地図データ ©2022

揖斐川が増水で氾濫すれば水が大垣に流れてくる訳ですが、揖斐川の右にある長良川が氾濫すれば揖斐川も氾濫する危険が増します。揖斐川よりも東の長良川の方が高い場所にあるからです。実際に昭和51年に大垣を襲った水害は長良川の氾濫が原因でした。そして長良川の東の更に高い所には木曽川があり、木曽川が氾濫すれば同様のことが起こります。

元々大垣はこうした地形であり、低地の大垣で水害が多発することは仕方のないことだと、これまでは思っていました。しかし輪中館の展示で、この高低差は人為的に、意図的に造られた側面もあることを知りました。それは名古屋城(名古屋城の城下町)に水が流れないようするためです。

Googleマップ 地図データ ©2022

名古屋城は徳川幕府のお手伝い普請によってできた城で、関ヶ原の戦いで徳川家康が天下をとってから造られた城です。徳川御三家の一つ尾張藩の本拠地ということで、城下町が整備され武士はもちろんのこと、清州にいた住民は町ごと名古屋に引っ越ししました。清州にあったほとんどの寺社、そして商工業者も移住し、「清州越し」と呼ばれました。

その際に西国大名に対する防衛として、木曽川の犬山より下流の地域に50kmにわたる堤を造り、美濃側に対して木曽川の右岸は左岸の堤よりも3尺低くするように定めました。3尺は約90cmです。この堤(「御囲堤」というらしいのですが)が完成したのは1609年とされ、以降木曽川の右岸域は破堤の数が倍以上になります。尾張(名古屋)側の左岸の破堤が平均して10年に1度あるかないかに対して、美濃側の右岸は10回前後破堤しています。

川の堤防は右岸と左岸で強度が違うことは知られています。東京を例に挙げると、荒川は都心の方の堤防を高く厚くしています。都心の外の右岸の方はそれよりも堤防が薄く低くなっていて、左岸に水が浸水する前に右岸に水が流れ込むようになっています。「差別的」ともいえますが、こうした水を片方に逃す治水は戦国時代から行われており(それより更に前からと思われますが)、水を完全にコントロールできない限りは基本的には執られうる治水の政策ともいえます。

江戸時代の尾張藩の政策により大垣は水害の多い土地となり、以後洪水常襲地となりました。

江戸時代の治水事業

輪中館では、こうした考えさせられる展示を見ることができましたが、印象的な展示は他にもありました。それは江戸時代の治水事業です。輪中館では伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)という一人の人物を紹介しています。輪中に溜まる水を逃して田畑の収穫量を上げるために、揖斐川の下に地下水路を造り、他の場所に逃す工事をした大垣藩士です。この工事は完成し、彼が天明5年(1785)に造った水路は明治38年(1905)まで活躍しましたが、この工事の完成後に伊藤伝右衛門は自刃しました。

それは初めの工事が失敗に終わり予算よりも多くのお金がかかったからとも、予算内に工事を終わらせるために公のお金を私的に使ったからともいわれています。工事の成功を妬んだ人からの迫害があり、責任を一人でとったともいわれています。難工事に挑み、工期通りにいかないことは想定内ではあるけれども誰かが責任を取らねばならない、ということが当時の役人(藩士)にあったことは、江戸時代の治水事業を考える上で忘れてはならない要素に思えます。

そして工事の成功を妬む人からの迫害…。これも治水事業の難しさを表しています。当時の治水事業は、川の流域に住む人たち全員の利害が一致するものではありませんでした。川上の住民にとっては川下の土地は低い方が自分にとってはいい訳で、川の右岸の住民にとっては川の左岸の土地が低い方がいい訳です。川下の住民や川の左岸の住民が治水工事をしてその土地を高くしたら、それまで安全だった川上や川の右岸の住民は洪水のリスクが増えます。そうしたことで常に周辺住民の争いがあり(山論ならぬ水論というらしいです)、なかなかうまくいかないものでした。

そうした難しい工事を任され、失敗しても切腹、成功しても切腹ということが当時はまかり通っていたことを知れたのは、いい体験でした。治水事業はどこかしらの住民が犠牲を払うものという構図は、現在でも変わらないような気がします、勉強不足で詳しいことは分かりませんが。先日荒川治水館に行った時に、都心の荒川流域の安全は上流・中流のおかげでもあることを知りました。都心の堤防や水門も勿論水害を防いでいますがそれはあくまでも最終手段であり、そうならないように中流には遊水地が設けられ、上流にはダムが設けられています。都心の荒川下流域の安全は、荒川の上流・中流のおかげでもあるのです。

薩摩藩の手伝普請 宝暦治水

川の上流・下流、右岸・左岸の利害調整をしながら行う治水事業ですが、木曾三川の治水工事という大規模なものが薩摩藩の手によって行われたことも、輪中館では伝えています。なぜ薩摩藩が…。これは西国大名の筆頭であった薩摩藩の勢力を弱めるのが目的だったようです。徳川幕府によって木曽川の右岸に堤が築かれたせいで木曾川の左岸や大垣では洪水が以前よりも多発するようになりましたが、それを改善するために木曾三川を分流させる大規模な工事が薩摩藩に命じられたのです。

この工事は宝暦4年(1754)の2月に着手され、翌年の宝暦5年(1755)の3月に完成しましたが、40万両(輪中館の展示によれば現在の金額にして約96億円ですが、本やネットでは300億~400億、多いものだと600億と書かれているものもあります)もの費用が投じられた難工事でした。幕府の方針が度々変更され、その度に計画の変更を余儀なくされ、大雨により工事のやり直しが起こり困難を極めたようです。そして驚くことに、故郷を離れて工事に従事した薩摩藩の51名が割腹し、32名の病死者を出したのでした。83名の死者を出した責任と多額の借金を残した責任を一身に負い、総奉行であった平田靭負(ひらたゆきえ)は自刃したと伝えられています。

輪中館ではそれ以上のことは記しておらず、Wikipediaに書かれている内容になりますが、徳川幕府は手伝普請の経費は全て薩摩藩の負担とし、大工などの専門の者を雇うことを禁止し、重労働をさせておきながらも1日1汁の倹約を命じ、地元の住民に蓑や藁を安価で売らぬように命じたとあります。薩摩藩士による初めの切腹は、幕府の役人が地元の住民にでしょうか、堤を破壊するように命じ、3回も堤を壊したたことへの抗議であり、以後割腹自殺での抗議は続き、病死者は食料不足で体力が弱った藩士たちに赤痢が流行ったためであると、Wikipediaには書かれています。

衝撃的な内容であると同時に、これが本当だとしたら、当時はこのようなことが珍しくなかったことが分かります。徳川幕府が外様大名に対してどのようなことをしていたのか、宝暦治水からうかがい知ることができます。こうしたことは他にもあり、これが明治維新の時に薩長が徳川側の幕臣に酷い仕打ちをしたことに繋がっていることも理解できます。とはいえ、果たしてこれは本当なのかという疑問もネットにはあり、僕自身も分かりません。宝暦治水について書かれた本をこれから読んでみて判断したいところです(その後、本を読んで知ったことはこちらの記事でまとめました)。

Googleマップ 地図データ ©2022

さて、薩摩藩によって行われた宝暦治水は、大榑川(おおぐれがわ)の洗堰(あらいぜき)と油島の締め切りが大きな工事として知られています。大榑川洗堰は上の写真、油島の位置は下の写真。赤い丸の三角州の所が梅津市油島になります。平田靭負と薩摩藩士84人は梅津市油島にある治水神社(昭和13年建立)に祀られています。興味のある人はこの辺りを歩いてみるのもよさそうです。養老鉄道の多度駅から徒歩40分くらいです。

Googleマップ 地図データ ©2022
Googleマップ 地図データ ©2022

輪中館では、大垣の治水に尽くした人として、大垣の初代藩主戸田氏鉄(うじかね)と彼の治水に尽力した清水五右衛門、明治時代に治水対策に懸命に取り組んだ金森吉次郎、明治期の木曾三川分流工事を完成させたヨハネス・デレーケについても紹介しています。近世や近代の歴史が好きな人や治水に興味関心のある人は、輪中館は訪れてみて後悔のない見ごたえのある資料館だと思います。

参考文献
伊藤安男・青木伸好『輪中(わじゅう) 洪水と人間 その相克の歴史 日本の歴史地理10』学生社 (1987)

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