【旅の拾いもの】日本一周1日目 旅の時には分からなかった駿府という土地②

静岡県

天然の要塞駿府
駿府に興味を持たせてくれた本は、竹村公太郎氏の『日本史の謎は「地形」で解けるー環境・民族篇』だった。そこには『なぜ家康は「街道筋の駿府」を終の棲家に選んだか』という興味深い章があり、関ヶ原の戦いの後に家康が駿府城を居城にした理由が書かれていた。すっかり忘れていたが、駿府城は家康が晩年過ごした城だった。関ケ原以降、天下を統一した家康は江戸城を息子の秀忠に任せて、自身は名だたるブレーンを引き連れて駿府城で大御所政治を行っている。

本では家康が江戸ではなく駿府に住んだ理由を、駿府が天然の要塞だったからと書いている。駿府城は東に由比の薩埵峠(さった峠)、西に宇津之山があり、東海道でも難所として知られる場所の間にある。難所に挟まれたこの土地は、同時に防御に強い土地でもあり、東からだろうが西からだろうが、敵の軍が駿府に侵入しようものなら、狭い一本道を縦に間延びしたところを崖からの攻撃すれば簡単に大きな被害を与えられる土地であった。北は山で囲まれ、南は海があるので、駿府城や江戸に行くには東海道のこの難所を通らないと進めない。駿府はまさに四方八方の地形に守られた、守りに適した場所なのである。

海上から駿府城に攻めればいいのではないかと思えるが、海は安部川からの土砂が流れ堆積する遠浅となっており、船が近寄れない。船から上陸するには兵が浜に降りて進まねばならないが、水深が1mもあれば砂と水で兵は身動きが取れず、いとも簡単に鉄砲や弓矢で射られてしまう。源頼朝が幕府を開いた鎌倉がそうであるように、遠浅のある海は鉄壁の守りができる地形なのだ。

そんなことが『日本史の謎は「地形」で解ける』に書かれていたが、この本は面白かった。シリーズ通して(3巻出ているが)、江戸の下水道や治水、京都の街道、大阪や奈良の街の特徴などを「地形」という独自の視点から解説していて、読んでいると新しい発見やなるほどなと思えることが沢山ある。本の著者は建設省でダムや河川事業に携わり、実際現地の最前線で働いてきた経歴がある、いわば地形のプロである。そんな著者が書いたこの本は、政治や経済とは別の視点から日本史を読み解いていて、読んでいて飽きないものがある。

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家康が駿府に移った5つの理由
話を戻して、『日本史の謎は「地形」で解ける』では駿府の天然要塞の面が注目されているが、家康が駿府に移った理由は一般的には5つの理由があったとされている。ネットで検索してもすぐに出てくるが、家康に仕えた廓山(かくざん)という僧が書いた『廓山和尚供奉記』には、家康が江戸から駿府に移った次の5つの理由が書かれている。

幼年の時、この土地に住み故郷という感じがする
北に富士の群峰が連なり、冬は暖かく、年寄には過ごしやすい
お米の味が天下一品である
南西に大井川、安倍川の激流があり、北東に箱根、富士川の難所があり要害堅固である
江戸への参勤の大小名が拝謁するのに便利である

中にはそんな理由で引っ越しするのかと疑わしいものもある。故郷であり、過ごしやすく、お米が美味しい。そんな理由で天下人が移住を決意するのだろうか。豊臣家や西国の外様大名が気になるから京都・大坂の近くにいたかったというのが主な理由だろう。関ケ原で思うような戦果が得られなかった家康としては、まだまだ畿内・西国が心配だっただろうし、大坂に近い名古屋城はこの時まだ普請されていない。防衛上の理由もあるが江戸よりもより畿内に近いに場所が移転の大きな理由だったと思われる。

とはいえ、一番目に挙げられている「幼少の時、この土地に住み故郷という感じがする」という部分はあながち嘘とも思えない。家康は幼少の頃に今川義元の下で、駿府で12年の人質生活を送っている。家康の人質生活は惨めなものだったといわれているが、近年では大事に育てられ将来を期待されていたという意見の方が強い。家康は義元の嫡男氏真を補佐をする有力な家臣として期待され、それに相応しい教育を受けたとされる。その証拠に義元の娘と結婚して今川家の一門衆となっている。「故郷という感じがする」というのも、いい思い出があったからだろうことは推測できる。

「この土地に住み」とあるように家康は人格形成に重要な12年を駿府で過ごし、独立して浜松に移った後、武田家が滅亡してからも駿府に移り統治にあたっている。この二つの移住経験は家康に駿府に対する郷土愛を育てたのではなく、駿府の利便性を知らしめたのではないかと考えられる。家康には駿府の魅力が見えていて、それを自分の所に置いておきたかった。駿府には家康を魅了する魅力があった。そういうのは駿府を持ち上げ過ぎだろうか。そんなことを考えたら、今川義元のことが気になった。駿府といえばこの人だろう。

今川義元の領国経営
今川義元といえば都の華やかな文化を取り入れた大名、軍事力があった大名として名が知られている(分国法を整えた大名としても)。どちらも経済力があってはじめて成り立つものである。義元の強みは経済力だったのではないだろうか、だとしたら義元の経済政策はどのようなものだったのか。そんなことが気になり小和田哲夫氏の『今川義元 知られざる実像』という本を読んでみた。すると本には、部分的ではあるが、義元の領国経営について書いてある。

駿府の金山
駿府の経済基盤は金山と東海道だった。駿河の金山は、主な金山だけでも梅ヶ島金山、井川金山、富士金山の3つの金山があり、そのうちの梅ヶ島金山と井川金山は駿府の近くにあり、そこからの金の産出量は莫大だった。義元の時代に「灰吹き法」という画期的な精錬法が朝鮮経由で日本に入ってきて、金の産出量が増大したのが要因だ。

それまでは砂金から金を採っていたが、この灰吹き法なら掘った金鉱石から金が採れる。金鉱石を掘ったらそれを粉にして鉛と混ぜ合わせ、動物の骨で作った皿の上で熱すると、不純物が鉛と一緒に動物の骨に吸い取られ、金の塊りだけが残る。この技術のおかげで、義元は駿河で莫大な経済力を持つことができたという。

梅ヶ島金山や井川金山を「安倍金山」と呼ぶことがあるが、Wikipediaの梅ヶ島金山のページによると、安倍金山は少なくとも4つの金山の総称らしい。梅ヶ島金山は日影沢金山、関之沢金山、湯ノ森金山の総称であり、井川金山は井川村にある笹山金山を中心とする金山の総称であり、その両者を更に合わせて安倍金山と呼ぶのだそうだ。金の採れる山が沢山あったことが分かる。

東海道の整備
東海道に関しては、義元は今川領内に東西に貫通している東海道に目を付け、伝馬制(てんませい)をしいて商品の流通の円滑化を図った。伝馬制とは、公用の書状や荷物を出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、宿場ごとに人馬を交代して運ぶことである。物流の拠点が整備されることで商業が活性化する訳だが、義元は城下町に住む商人を豪商に束ねさせ、町衆にはその自治を認めており商業に対しては柔軟な政策をとった。

また本には陸路だけでなく海路のことも書かれており、太平洋岸航路を推奨し特産品である茜(染料)などを京都に売り込んでいたとある。本には書かれていないが、今の清水港だと思われる。清水港は三保の松原で知られる三保半島が天然の防波堤となり、1年を通して波が穏やかな良港として知られている。水深も深く船を停めるのにいい港であるため、現在でも海外との貿易の拠点になっている。先述の通り駿河湾は遠浅の続く船が寄れない場所であるから、清水港が整備されたのではないだろうか。

『今川義元 知られざる実像』を読むと、義元は金山経営と東海道の整備によって経済基盤を整えたことが分かるが、面白いのは駿河という国は米の石高が高くない地域だということだ。著者の計算によると、駿河一国の石高は15万石で、信長の領国の尾張一国は54万石もあったようだ。義元の領土の駿河、遠江、三河を合わせても69万石になるくらいで石高が高い国ではなく、その石高の低さを金と流通で補ったことが本を読んで知れた。

この他にも本にはいろいろと興味深いことが書かれており、義元が駿府を支配するに至った経緯や、検地や分国法(今川仮名目録)についても説明されている。義元と関係の深い北条早雲や徳川家康、そして織田信長についても書かれているし、当時駿河は京風文化が花開いた場所だということで、戦国三大文化である周防の大内氏や越前の朝倉氏との共通点や経済力についてなんかも書かれている。戦国時代に興味のある人にとっては飽きない内容になっている。2019年に発行された割と新しい本でもあり、この本もおすすめである(レビューはこちら)。

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さて、家康が大御所政治を駿府で行ったのは、こうした経済基盤があったからだろう。今川義元の時代に作られた土台を活かしたかったのだろう。幕府に莫大な収入をもたらす金山を自分で抑えたいという気持ちもあったのだろう。江戸時代の金山といえば佐渡の金山が有名だが、佐渡で金の鉱脈が見つかるのは関ヶ原の戦いが終わり、徳川家の領土になってからである。

佐渡金山から金が採れる以前は、安倍金山から採れた金が慶長小判に使われていたし、駿府には金座があったという。佐渡金山以前は、安倍金山が駿府の財政を支えていたのではないかと、とも考えられる。金の産出量自体は他の鉱山と比べて少なかったと書かれているサイトもあり、実際のところは分からないのが。

駿府の発展と豪商の増大
家康は、今川家によって作られた基盤を活かして、天下普請によって駿府の町をさらに発展させた(天下普請については長くなってしまうので、次回の名古屋城で書くことにする)。家康によって急成長した駿府の町は、大阪に次ぎ江戸と肩を並べるほどの人口になり、豪商が力を蓄えるようなった。家康に謁見する大御所詣で(駿府詣で)や駿府糸割賦(するがいとわっぷ。糸割符のこと)で、駿府の豪商は権力と財を成していく。

江戸城よりも大きかったと伝わる駿府城
天下普請で造られた駿府城は大きく、天守閣は江戸城よりも大きかったのではないかと言われている。2016年に発掘調査が行われ、駿府城の天守台の大きさが判明し、これまでは江戸城の天守台が一番大きいとされていたのだが、駿府城の方が大きいことが分かったのだ。江戸城の天守台は45m×41mであるのに対し駿府城の天守台は68m×61mで、一辺は江戸城の1.5倍あり、面積だと2.25倍あることが判明した。あくまで天守台の話であり、必ずしも天守閣の広さと同じとは言えないのだか、天守閣が江戸城よりも大きかった可能性があるようだ。

部分的なことばかりでまとまりがつかないのだが、調べてみると駿府の過去の繁栄をいろいろと知ることができた。そんな、多くの人や物が行き来し経済が栄えた駿府の城下町も、家康の死後は次第に影が薄れていく。秀忠に権力が一本化され、菱垣廻船(ひがきかいせん)により陸での流通は変わり、駿府は他の城下町と変わらない、一都市に過ぎないものになっていたった。大阪に次ぎ江戸と並ぶほどの人口で賑わった駿府も影を潜め、大御所詣でや糸割符で莫大な収入を得ていた豪商は没落し、金山も次第に枯渇していく。

しかしそれも家康が意図したことなのかもしれない。名古屋城ができるまでの一時的なものであり、江戸城ができるまでのつなぎでもあり、天下普請で外様大名の財力を減らすためのことだけだったのかもしれない。今では堀と一部の門があるだけで、当時の日本を動かした駿府の面影は感じられない。自分にとっては、旅で立ち寄った時に行く価値のない場所にさえ思えた。

旅をした時は駿府にどのような歴史があったのか知る由もなかったが、調べてみるとさらに知りたいと思うことが沢山出てきた。金山や検地、糸割符や友野宗善(とものそうぜん)といった駿河の豪商など、時間を見つけて本を読んでみたいと思うようになった。

参考文献
竹村公太郎(2014)『日本史の謎は「地形」で解ける― 環境・民族篇』PHP文庫
小和田哲夫(2019)『今川義元 知られざる実像』静岡新聞社

2015年駿府城公園

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