『今川義元知られざる実像』小和田哲男

総評
「今川復権」という、今川義元の名誉回復運動をしている小和田哲男氏の書いた本。本書は雑誌や新聞等に寄稿した文を繋げて作られている。著者はNHK大河ドラマの時代考証に関わっていることでも知られている。

個性的な大名が次から次へと現れた戦国時代。信長・秀吉・家康、武田信玄、上杉謙信、毛利元就、北条氏康。今川義元がそれら名だたる戦国大名に埋もれているのも事実だろう。御輿に乗りお歯黒をし、残念な殺され方をした今川義元は、東海一の弓取りという表現も織田信長のお膳立てに過ぎなくなってしまっている。

そんな今川義元を、武田信玄や上杉謙信と肩を並べた武将とし書いた本が、『今川義元知られざる実像』だ。

読んだきっかけ
日本一周の旅の1日目に駿府城公園に行った時はがっかりした。城跡に公園があるだけの場所で、なんの見所もなくつまらない土地だと思った。しかし旅の後から家康が終の棲家にした土地だったことを知り、少し調べてみることにした。家康が晩年の政治を執るからには駿府という土地にそれなりの魅力があったはずだし、その土台は今川義元の時代につくられたのではないかと思った。義元は「東海一の弓取り」といわれるほどの実力者だった訳で、義元の領国経営を知れば駿府の魅力が分かるのではないかと思い、今川義元を題材にした本を探した。

最近では義元は愚将だという評価は少ないが、自分が子供の頃は大河ドラマや正月のドラマで酷い描かれようだったことを覚えている。己の力を過信して油断して死んだ愚将という代名詞といってもいいほどの、描かれようだった。だからできるだけ新しく出版された本から、義元の有能さが分かる本がないかと探したら、この本を見つけることができた。レビューが少ないが、出版が比較的新しいからだと思い、早速読んでみることにした。

読んでよかった点
誤解されている義元像の修正、義元の政治手腕、信長の実力の3点を知ることができるという面で、いい本だと思う。他にも京都の文化についてや今川家の興りについても時代を遡って知ることができる。

誤解されていることといえば、こんなことだろう。馬に乗ることもできないほど太っていたから輿に乗っていた、大軍を率いて上洛をするつもりだった、大軍故に油断した。そんな誤解が本を読んでいるうちに解けていく。

義元像の修正だが、輿に乗っていたのは馬に乗れないほど太っていたからではない。義元の首を取った毛利新八は指を食いちぎられた話はよく知られているが、首を取られるまでは抵抗して壮絶な死闘をしている。信長公記に書かれているが、首を取りに来た武将の膝を切り撃退している話も、戦国時代が好きな人なら割と知っているかと思う。

輿に乗ってたのは、信長の軍を威圧するためだったと考えられる。今川家は足利家の血を引く名門の家柄で、当時の将軍家から輿に乗ることを許可されていた。輿に乗りその権威を利用することで、信長軍を心理的に揺さぶろうとしたのだろう。信長の家臣を圧倒し、寝返りや離反を期待したことも考えられる。

また、お歯黒をしていたのは当時身分の高かったことを表している。公家かぶれだったからではない。公家にはお歯黒をする習慣がなかった。お歯黒をしていたのは武家であり、一定の身分の武士がお歯黒をしていたのだ。戦場で首を取った足軽が、自分の戦功をアピールしたいがために取った首をにお歯黒を塗ったなんて話もある。輿にしろお歯黒にしろ、義元が公家かぶれの「麻呂」だった訳ではないことが理解できる。

こういったように本を読み進めていくうちに創り上げられた義元像が修正かれていくのだが、桶狭間の戦いは上洛するつもりがあったのかということについても、本では触れている。本を読んだ限りでは義元に上洛の意図があったとは考えにくい。

優れた手腕で経済力があったことは確かだが、尾張を侵攻した後に美濃に攻め入り、その後に近江に行くほどの力があったとは考えにくい。その点については、石高という数字を用いて説明している。著者が独自に計算して数字を出しているのだが、それを見ると石高の面では義元が信長を圧倒的に凌いでいたとはいえない。

考えてみれば、圧倒的な差があったのなら何もわざわざ義元自ら出陣する必要はない。輿に乗って権威を掲げる必要もないだろう。輿に乗って義元自ら戦場に出向く方が、戦況が有利に働くことを期待しての行動だと取れるし、ということは同時に信長軍の抵抗が小さなものだとは考えられていなかったのだろう。数の上でも、近年の研究では、信長の兵数は2千人、3千人ではなく、少なくとも5千人はいたのではないかといわれている。

この辺の、興味を持つ読者が多い桶狭間の戦いに関しても、数十年前にいわれていた「低地に休憩していたところを襲った」という定説が今では信じられておらず、別の説が主流になっていることも書かれている。

義元の政治手腕についてだが、義元の魅力は領国経営における優れた手腕だろう。金山開発、伝馬制を敷いた東海道の整備、商人の優遇、分国法、検地など、「東海一の弓取り」という評価にふさわしい功績が知られている(もちろん外交も)。

本書では、金山と検地について丁寧に書かれていて、ためになる。金山に関しては、義元の時代に「灰吹き法」が日本に導入され、金の産出量が劇的に増えた。それまでは砂金からしか金は採れなかったのだが、この方法で金鉱石から金が採れるようになり、金山からの収入が増大した。

また、検地の項目では、戦国大名の収入源について詳しく知ることができる。戦国大名は直轄地が多くなかったのに、なぜ大軍を率いて戦争をするほどの経済力があったのか、そんな疑問に答えてくれる。直轄地が少ないということは、そこから入ってくる年貢が少ないということだ。土地は支城主(豪族)にあげているから、大名の直営地は多くはない。大名は支城主(豪族)に土地を安堵し、支城主は軍役を果たす。これだけでは領国経営をする財力を保持できる訳もなく、別の収入が必要となる。それについても分かりやすく書かれている。

そして信長の実力についても、本書で知ることができる。桶狭間の戦いで勝つまでは弱小だと思われている信長は、実はそれほど弱くなかった。信長の収める尾張という国は、恵まれた穀倉地帯で石高が高く、太平洋航路の貿易ができる湊があり、経済力が高い国だった。おまけに陶器産業も盛んだったらしい。現在では、織田信長は戦争が弱かった武将として知られているが、それでもすぐには潰せず、大軍を率いて義元自ら出陣しないと勝てないくらいの国力があったことが、本を読んで知ることができる。

他にもこんなことが書かれているため、興味のある人にはお勧めだと思う。今川家が駿河・遠江で守護になった過程、義元と北条早雲との関係、義元・家康に多大な影響を与えた名僧大原雪斎、義元が期待していた徳川家康の役割、今川仮名目録や寄親寄子制、今川家領内で広まる京風文化、「戦国三大文化」をつくった大内家や朝倉家の領国軽経営、などなど。

今一つだった点
残念だったのは、個々に書かれていることが一方では詳しく、また一方では一文で片付けられてしまい物足りなく、全体としてのバランスの悪さを感じた点である。各方面に寄稿した文を集めて本書が作られているとのことで、そうなっているのだろうが、各章の繋がりがなかったり、同じようなことが書かれていることが散見される。石高や金山、検地については詳しく書かれていて面白かっただけに、地場産業の促進や寄親・寄子制度、分国法については物足りなさを感じた。

義元自身の政策についての記述が足りないのも、残念だった。今川家の成り立ちや今川家臣の城の話など、そういった記述よりも経済政策や技術革新についての方が、個人的にはもっと知りたかった。義元には信玄や謙信と肩を並べるだけのこれほどの政治力・軍事力・経済力がこれほどあったのだ、といえるような一貫した「義元復権」本だったらと思う。

そして、電子書籍化していないのも残念。

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