【小話 戦国時代】桶狭間の戦い

歴史小話

画像は大日本歴史錦繪 月岡芳年「桶狭間合戦稲川義元朝臣陳歿之図」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

日本史の中でも最も人気がある戦国時代。その中でも、日本三大奇襲は特に多くの歴史ファンが想像を駆り立てる、関心のあるものだろう。

そんな戦国時代の三大奇襲の中でも、一番有名でインパクトのあるものが、桶狭間の戦いだ。駿河・遠江・三河を収め、海道一の弓取りと評され、大軍を率いて京へ上洛を目指した今川義元が、信長率いる数百の軍に奇襲され、あっけなく打ち取られてしまった合戦である。

ストーリー性のある内容、絵になる合戦ということで、幾度となく時代劇をはじめとしたテレビやドラム、小説、映画、漫画などで扱われてきた。

合戦の前日に家臣を集めた軍議では信長は一言も発せず「もう寝る」と言って退出し、家臣団が「織田家ももはやこれまでか」とこぼした話や、翌日人間五十年の敦盛を舞った後、立ったまま湯漬けをかきこみ、単騎で城を出たという話、合戦前に戦勝祈願をした熱田神宮では神社の中から甲冑の音が聞こえ、家臣は勝利を確信したという話など、いろいろな逸話が残されている。

現地の地主に、義元に戦勝祝いの酒やご馳走を提供させて陣地の窪みに留まらせたとか、直前まで大雨や雹(ひょう)が降っていたため、義元は信長の動きを把握できなかったとか、丘の上から義元のいる本陣目がけて駆け下りて突撃したとか、今では大半が創作とされているが、そんな話もよく知られている。

おかげで、義元は汚名を着せられ、油断した愚将とか公家かぶれの凡将とかいわれるようになってしまった。

しかし、面白いことに、桶狭間の戦いの全容は全くと言っていいほど分かっていない。戦国時代ファンなら一度は、桶狭間の戦いについて調べたことがあるとは思うが、調べれば調べるほど、その全容は分からなくなっていくといった経験があるかと思う。

合戦の記録というものは勝者が書いたものであれば、大半が誇張・創作があるから、一般的に言われている話は眉唾物だと考えられている。今川義元が桶狭間という窪地で休んでいたというのは、最近の研究では否定されているし、圧倒的な大軍で上洛を目指していたこともかなり疑問視されている。

小和田哲男氏の『今川義元知られざる実像』では、桶狭間は小高い丘だと書かれている。窪地ではなく、桶狭間山という丘で休憩していたのだ。ということは、奇襲したとしても、信長軍は丘を駆け上がって突っ込んだことになる。また、本では迂回したのも疑わしいと書かれている。正面からの突撃だったのではないかと。

本を読んで初めて知ったのだが、桶狭間古戦場という場所は二ヵ所ある。名鉄名古屋本線の中京競馬場前駅の近くにある桶狭間古戦場伝説地と、そこから歩いて15分ほどの所にある桶狭間古戦場公園という場所である。本では、逃げる今川軍を追撃したため、二ヵ所あると書かれている。予想外の奇襲を受けたため、事前に退路を決めておらず、あるグループは来た道を戻ろうとし、また別のグループは他の支城に逃げようとしたため、それぞれの場所で織田軍の追撃を受けたのだ。

ネットで調べてみると、義元が桶狭間で2回攻撃を受けたからだと書いているものもあった。一度合戦が行われ、信長軍が一旦引いて戦が終わったと思いきや、別の部隊が奇襲をして義元軍が混乱に陥ったと書かれているサイトもあった。

文献がなくその実態を知る術もないが、信長が以降、二度と同じような事をしなかったことから考えると、丘を上がり正面奇襲したことも十分考えられる。

歴史は本当のことが分からないから楽しい、とも言える。いろいろな可能性をあれこれ想像する楽しさがあるから、歴史小説は人気があるのだろう。

戦国時代の三大奇襲の他の二つも、創作だったり、これまで事実だと思われていたことが実は違うという事柄が出てきている。戦国期の日本三大奇襲のもう二つとは、一つは北条氏康1万軍が上杉憲政8万軍に勝った川越夜戦、もう一つは毛利元就が5千の兵で陶晴賢率いる3万の軍に勝った厳島の戦いである。

実際にところはまだまだよく分かっていないことが多く、今後の研究で新たな説が出てくるものと思われる。

ついでに、公家かぶれの麻呂武将と酷評されていた今川義元は、太っていたから輿に乗っていた訳ではない。武芸の嗜みも、少なくとも他の戦国武将の平均くらいはあったといわれている。

一番最初に義元の首を取りに行った服部子平太の膝を切りつけて撃退しているし、最終的に首を取ることになる毛利新八の指を食い違ったともいわれている。

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