【小話】平安時代 刀伊の入寇に見られる朝廷の地方軽視

歴史小話

画像は年中行事絵巻9巻(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

寛仁3年(1019年)、刀伊の入寇という一大事件が起こる。高麗の方からやってきた50隻もの賊船が対馬・壱岐を襲撃し、140人もの島人が殺され、200人以上がさらわれた。賊船はその後も筑前の志麻郡を襲撃し、北九州全体で365人が殺され1289人が捕らえられ、380頭の牛馬が殺された。

しかし朝廷は、相手が高麗の者ではなく刀伊とか女真とかいう日頃縁もない連中だということで、大して気にしなかった。北九州の被害については大宰府や国司が考えればよいことで、かれらから何か申請されたらその時処理すればいいという姿勢だった。

この時、藤原隆家が大宰府権師(大宰府の実際の長官)として北九州を防戦して刀伊を撃退した。彼は兄・伊周の女性関係のもつれあいから、従者を連れて花山法皇の一行を襲い法皇の衣の袖を弓で射抜くという事件を起こした人物で、それが原因で伊周は左遷させられてしまった。荒くれ者として知られていたが同時に善政を行い得る者としての評価もあり、刀伊の入寇の際には大宰府の官人や豪族から人望を集めて勇猛果敢に働いた。

またこの時、貴重な第一報をもたらした者に長岑諸近という人物がいる。対馬判官代(ほうがんだい)という現地の有力者であった彼は、母や妻子・従者もろとも捕らえられが一人で脱出し、小舟で高麗に渡って身内を救おうとした。当時海を渡ることは重罪であったがそれを顧みずに行動し、高麗で刀伊というのは女真族であり、北から高麗に掠奪しながら南下してきて、矛先を日本に変えて襲撃してきたことを知る。

高麗軍が刀伊から来た賊を撃退し数名の日本人を保護していたことも分かり、救助された対馬の者に家族のことを聞くが、伯母を除いて母も妹も妻子も既に殺されてしまっていた。絶望しつつも渡海の禁を破って密航したうえに、帰ったところで敵国通謀の罪にも問われかねないとのことで、刀伊に捕らえられていた日本人のうち女10人を連れて高麗から対馬に帰国し、そして刀伊の正体を第一に大宰府に報告した。

この目立った働きをした二人に朝廷はどのような対応をしたのか。まず隆家にはなに一つ褒美を与えなかった。そして諸近については禁錮刑に処せられてからその後どうなったのかは分かっていない。諸近は禁を破った以上、見せしめのためにも大宰府で別命あるまで禁錮されたが、これに対して中央政府がどのような決定をしたのかは不明である。が、大目に見てもらえたとは思えない。

諸近の報告に対して大宰府は「下民の言、誠に信じ難しと雖(いえど)も」と見下している。判官代は一国の中級幹部クラスの地位であり土地の有力者であるのにもかかわらず、大宰府にとっては下民として軽く扱われた。そして大宰府は中央の朝廷からは同じように軽視されていた。

それから10年後の長元1年(1028年)、平忠常の乱が起きた時も朝廷は同じように地方軽視の姿勢を取った。源頼信を追討使に任命したものの、40日余りも経ってから京を出発したのは、出発に相応しい吉日がないからという理由だった。賢人といわれた右大臣の藤原実資すらも吉日を選ぶべきだと意見し、追討軍を直ぐに出さなかった。そして平忠常の乱を鎮圧をした源頼信への恩賞は、乱が鎮圧されてからほとんど1年経ってからようやく与えられた。

奈良時代の藤原広嗣の乱や橘奈良麻呂の変に即座に対応した貴族の姿はもはやなく、危機感もなければただ先例に沿って処理をするだけで、地方反乱の政治的意義を認識する能力すら欠いていた。そのうち自身の基盤が武士に取って変わられることも知る由はなかったのである。

参考文献
土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』中公文庫
竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』中公文庫

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