【小話】中世の勧進業の前身となる奈良時代の知識業

歴史小話

『行基』(速水侑[編]吉川弘文館)を読むと、奈良時代の知識について知ることができる。本の中で、知識とは元々「僧侶にとっての知人であり時には棲家や食べものを工面し、時には草庵の材料を提供してくれる者」の意味であったが、これが「僧尼の感化に応じて結縁のために財物を浄捨しそれによって極楽往生しようとする者」になったと書かれている。簡単にいうと、僧の布教に共感し信者となった者が、僧の衣食や活動(寺院の造立や写経)のための金品を寄付したり無償の労働を奉仕するものである。

行基が構成した知識は畿内に橋を架け溜池を造り、大仏造営にも参加し、民衆のため、国のために活動をした。行基は社会事業を行ったから、功労者として称えられ、その名声は後世にも語り継がれ、後の時代の多くの人に影響を与えた。しかし行基が布教を始めた初期は朝廷から危険視され、一度弾圧されている。民衆を取り込み集団を形成する知識は、行基のように国策と足並みをそろえて社会事業をする分には何の問題もないが、社会事業以外のことをする危険性もはらんだものであり、朝廷にとっては常に目を光らせておく必要のあるものであった。

行基の知識が社会事業に携わるようになる前は、指に火を灯したり皮膚を剥いでその皮に写経をしたりしたらしいことが、記録として残されている。捨身業といって、極楽浄土に行くために自らに痛みの伴うことを課す苦行であるが、これは仏教と同様に中国から伝えられた。指に火を灯す、身を焼く、皮を剥いで写経する、畜生に身体を布施する(食べさせる)、自ら奴隷となりそれで得た財貨で仏法僧を供養する、といったものがあった。

律令国家をスタートさせた朝廷は仏教を鎮護国家のために利用したが、この度の過ぎた中国流の捨身行為は否定した。しかし8世紀初頭には行基集団のように中国流の捨身行為を導入するグループが出現するようになった。行基の活動から分かるように、知識を集めるためには祈祷や病気回復、または葬式を行うことで民衆の支持を集めることができるが、捨身行為という一種のパフォーマンスも人目を引くのには十分効果的だったのだろう。

行基集団が問題視されたのは、人の妻子までもがが出家してしまう点にもあった。行基の教えに感銘を受けた女性が、その子供を引き連れて勝手に頭を剃り家を出てしまい、親や夫を顧みなくなることもあった。妻子が出家することは、家族秩序の崩壊につながり、また男女が集団として合宿することは道徳的にも問題視されるべきことであり、朝廷は知識は社会秩序の崩壊につながるものだとして社会問題として問題視した。

そして朝廷が国家の意に沿わない形で集団化する知識を危険視したのには、集団ができれば暴動が起こるという中国の事例をよく知っていたからだった。中国では太平道の乱や五斗米道の乱という宗教団体の武力反乱が後漢書に記されているが、異様な乱に『魏書』に記されている弥勒教徒の乱というものがある。wikipediaには「大乗の乱」と書かれているが、法慶という僧が北魏で515年に大乗教を組織し起こした反乱である。

この僧は薬剤を合成して信者に服用させ、殺戮を主導させたと伝えられている。薬を服用した者は身内(親族)の判別すらできなくなり、ただ殺害のみを事とするようになり、一人を殺した教徒は一往菩薩、十人を殺した教徒は十往菩薩と称され殺人が奨励され、殺せば殺すほど教団の中の階級が上ったらしい。狂った教徒は、役人や他宗の僧尼を殺し、役所や寺院を放火焼尽させたという。

このインパクトのある乱については、吉田靖雄著の『行基』(ミネルヴァ書房)で知った。本には、「養老元年(717年)の時点で中国の教養を身につけていた知識人や官僚らは教徒らの反乱事件をしっていた」とある。行基の知識には中国の反乱分子と共通点があり、行基集団が反乱軍になり得る可能性があったから、朝廷は危険視しやがて弾圧に乗り出したのだ。

主な共通点として次にものが挙げられる。行基集団には労役から逃れてきた浮浪人だけでなく、郡司級の下級貴族や郷長クラスの識字層の弟子がおり、組織化されていた。行基が造った布施屋は街道脇に設けられ、役民や貢調の運脚夫を収容し飲食物を提供していたため、街道を伝わって大きな集団が形成される可能性があった。行基は特異な能力を持っていたため多くの人を魅惑することができた。

行基集団の階層は幅広かったが、女性の出身者や階層も男性と同様に大半が京畿内の豪族・有力農民層・班田農民層・都市住民・官人層だったらしい。ついでに、先に妻子が出家する例を書いたが、当時の女性は自分の子供が亡くなった時に出家することもあったらしい。夫婦の絆よりも親子の絆の方が強く、我が子が亡くなると弔うために家を出ることが珍しくなかったようだ(速水侑[編]『行基』)。

また本を読んでいて興味深かったのは、知識というものは民衆のためのものだけでなく、貴族の間でも行われていたことだ。宮中社会でも知識というものがあり、貴族や官人が知識を結成して物品を出し合い、造仏や写経、仏事などを行っていたことが分かる。知識は民間で行われていただけでなく、天皇の身近でも行われたいたのだ。中世になると貴族が講を組んで旅行をするようになるが(呉座勇一『日本中世への招待』)、知識は講の前身にあたるような気がする。

一方、庶民の間では知識が広がっていくと同時に仏教が広がっていった。それまで貴族のためのものだった仏教が庶民にも伝わり、この知識の広がりが中世になると勧進業に転化していく。

『東大寺要録』には知識の総計が次のように記録されている(日本の歴史3 奈良の都)。

「材木知識 五万一五九〇人  役夫 一六六万五〇七一人
 金知識  三七万二〇七五人 役夫 五一万四九〇二人 」

材木知識・金知識はそれぞれ大仏殿・大仏の建造に無償で労働奉仕した人たちであるが、奈良時代には既に大仏造営だけで42万人もの知識がいた。知識について調べてみると、政治とはまた違った面から当時の社会状況が分かり面白い。

参考文献
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫
速水侑[編]『行基』吉川弘文館(2004年)
吉田靖雄『行基』ミネルヴァ書房(2013年)
呉座勇一『日本中世への招待』朝日新書(2020年)

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