平城京で働く官人の大部分は、非正規で働く下級官人といわれる人々だった。木簡や正倉院の文書から彼らの生活が断片的に知れるが、その暮らしは恵まれたものとはいえない。現在からしたら、過労と言えるものである。今回はよく知られている二つの例から、下級官人の世知辛い暮らしを見てみたいと思う。
一つは、東大寺で働く写経生の例である。奈良時代は僧侶以外の一般の人も東大寺で働いていたが、その多くは写経生といわれる経典を書き写すバイトである。彼らが職場に出した休暇願が残されているが、その理由は様々である。
一番多いのが体調不良で、腹痛、下痢、足の痺れ、腫れ物などだ。仮病の可能性もあるが、労働環境が良くなかったことが分かる。奈良時代の平城京の役所では(東大寺も造東大寺司という、東大寺を維持管理したり写経をする役所だった)、五位以上の貴族は椅子に座り仕事をするが、非正規の下級官人は土間に敷物を敷いて仕事をした。夏は湿気が多く冬は寒く、おまけに衛生環境もそれほど良くない。座ったまま長時間時事をするため、お腹が痛くなったり脚が痺れたり腫れ物ができたりと、そうしたことが職業病になっていたのだろう。
次に多いのは、仕事の切れ目だ。これは短期バイトの契約期間が終わったことを意味する。また、身内の不幸、祭りや仏事のための休暇願もある。これは単身平城京に働きに来ていたことを示し、氏神の祭りや法事がある時は自分の村に帰ったことから、田舎との繋がりがあったことが分かる。
住まいは勤務地から遠く、歩いて1時間かけて出勤することも珍しくない。そして下級官人には、そもそも休みがない。六位以下の位のある中級官人には6日毎に休みがあるから、5日働けば1日休めるし、また田暇(でんか)という農繫休暇が認められている。しかし下級官人にはそうした休みがない。
非正規のバイトである下級官人の生活は苦しかったようで、借用書も残されている。給与を前借しながら生活を繋げるが、利子は一ヶ月三割と高く、かなり厳しい生活を強いられていたようだ。
正倉院には写経生の待遇改善要求書なるものが一点だけ残っているそうで、こんなことが書かれているらしい。自分らの仕事がなくなるから新規採用を控えて欲しい、作業服を新しく支給して欲しい、一ヶ月に5日ほどの休暇を認めて欲しい、仕事中出される食事がまずいのでせめて中程度のものにして欲しい、毎日机に向かって写経していると胸が痛み足が痺れるから薬として3日に一度酒を支給して欲しい、以前は麦が間食として支給されたがこれを復活して欲しい。
もう一つの例は、長屋王家で舎人(とねり)として働いていた出雲臣安麻呂という29歳、位階なしの京都出身の者の例である。木簡の発見で分かったことは、彼の年間勤務日数は、日勤が320日、夜勤が185日の合計505日というものである。日勤を夜明けから正午まで、夜勤を正午から夜までとしても、夜明けから日暮れまで働くのだから、かなりの労働だろう。
律令では勤務日数は定められおり、1年360日(当時は陰暦で365日なかった)のうち規定では常勤職員は240日以上、非常勤職員は140日以上、貴族の敷地内で働く舎人・帳人・資人は200日以上となっていたが、実際はそれ以上働いていた。規定の勤務日数は最低限の日数で、それ以上は幾らでも働かせることができたというのが実態だったようだ。
29歳の彼は別の史料にも偶然記録されていて、42歳の頃に大初位下の位になり、長屋王家でまだ働いている。休みなくハードに働いて、13年後に位階をもらい三階の昇進があったということだが、わずか三階のみの昇進といえる。彼のこのような待遇は例外ではなく、他の舎人も同じような勤務状況だったという。
森郁夫・甲斐弓子『平城京を歩く』淡交社(2010年)
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫
寺崎保広『若い人に語る奈良時代の歴史』吉川弘文館(2013年)
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