【小話】往路よりも復路が危険な遣唐使

歴史小話

遣唐使が危険なことは有名である。4隻で唐に行くのはリスクヘッジのためで、行きに半分、帰りに半分が沈んでも1隻は残るように4隻が派遣されたなんてことも聞いたことがある。危険なことには変わりはないのだが、行きよりも帰りが特に危なかった。

航海技術や造船技術の発達していなかった奈良時代の遣唐使は風任せの航海だった。行きは東風が多少変わっても途方もない中国のどこかしらには着ける見込みが高く、嵐に遭わなければ安心だったが帰りが難しい。季節風を利用する当時の航海では、日本は狭く、しかも北九州となると風を受けてそこに向かうのはかなり難しいことだった。

遣唐使は夏に日本を発ち翌年の秋か冬に帰って来るのが普通だった。夏の典型的な気圧配置は南高北低となり、風は南風か東風が主でほぼ安全だった。しかし秋から冬にかけては大陸に高気圧が発達して風向きが逆になる。西風を選んで出航してもそれがいつ北風に変わるか分からない。北東風になったらそれこそ最後、ベトナムの方に流されてしまう。いい風が吹いても途中で嵐に遭うことがあるし、風に流されたら船が座礁したり島民の襲われたりする。

8世紀の遣唐使で奇跡的に生還した例として、天平度の平群広成(へぐりのひろなり)が知られている。天平5年(733年)に唐の港を出た平群広成の船は風に流され南西へと漂流し、崑崙国(こんろんこく)というマレー半島の近くまで流される。漂流後に言葉が通じないままに島民に殺され者、捕まって奴隷とされる者、密林に逃げる者が相次ぎ、大半が捕まるがそのうち90人余りが熱病で死に、150人の乗組員のうち唐の本土に逃げ帰ることができたのは、平群広成と水手(かこ)3人だけであった。

その後、平群広成は日本に帰国しているが、Wikipediaを見ると帰国するにも一筋縄ではいかなかったようだ。平群広成は判官として遣唐使に乗船しているが、漂流して島民に襲われても助かるのは、大抵貴族だったらしい。責任感があり日頃の体力があり、兵隊よりも楽をして食べ物もしっかり食べて体力を温存しているからしい。

貴族に基礎体力があるというとにわかには信じ難いが、当時の貴族は自らが田や畑を耕し作物を作っていたから、あながち嘘ではないと思われる。日頃からしっかり食べていて体も動かしているから、ろくに食べずに終日労働している役夫よりも体力があったのだろう。

命を懸けて唐に渡り、日本に帰って優れた技術や考えを広めようと高い理想や熱い情熱を持った貴族や官人がいた反面で、遣唐使だけは何は何でも勘弁してくれと逃げた官人もいた。775年(宝亀6年)に天皇から大使として拝命した佐伯今毛人(さえきのいまえみし)は、『日本の歴史3 奈良の都』では「これはいかん」と思い「病と称した」人物として書かれている。

参考文献
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫

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