【小話】命を懸けて海を渡る貴族 遣唐使

歴史小話

8世紀の貴族は高い理想を持ち、学問を修め自らが実務を担当した者が多い。平城京の造営、大仏建立、農業指導など、がむしゃらに働いた貴族がいたが、中には自らの命を懸けて海に渡った貴族もいた。遣唐使である。8世紀には大宝度・養老度・天平度・勝宝度・宝亀度の5回遣唐使が送られ、最後の宝亀度以外は約15年に一度のペースで送られていた。

遣唐使に乗る者は日本の代表として相応しい人物が任命され、その中には貴族もいた。構成は大使となる長官が一人で位階は四位、副使の次官が五位が二人、判官が六位以下が四人、録事という主典が四人というものだった。録事のような下級幹部ほど、外交渉の実務に長けた官人が選ばれ、副使・判官は航海中はそれぞれ一隻の船の最高指揮官となり得るため、古来の武門のような統率力のある人が任命された。遣唐使は4隻で渡航するから、判官も船の最高責任者となる。

そして大使である長官となると、その上に押使(おうし・統領の意)を置くこともあったが、加えて動作の優雅さや教養の深さが求められた。日本の代表として長安に行くからには、身分が高いのはもちろんのこと、学や教養、身なりや動作も高いものが求めらえた。しかも老齢では頼りない。優秀で出世が早く、家柄も中身も申し分のない、働き盛りの正に脂ののった優秀な官人が唐に渡った。

遣唐使の目的は唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報収集と文化の吸収だったが、実際に自分の目で見た唐の都は想像を超えていたものだっただろう。広大な国土に高々とそびえ立つ建造物に、いろいろな人種に食べものに工芸品にと、何から何まで新鮮だっただろう。それらを見て、貪欲に技術や文化を吸収し、持ち帰られるものがあれば書物でも道具でも一つでも多く持ち帰ってやろうと思ったことも想像に難くない。

日本に帰ったら唐に負けないようにもっと懸命に働こう、強い国にしよう、文化の高い国にしようと使命感に燃えた官人も少なくなかったのではないだろうか。日本を変えてやるくらいの情熱に燃えた者も中にはいたのかもしれない。

遣唐使は往路よりも復路が危険で、8世紀に遣わされた5回のうち4隻とも無事に日本に戻ってこれたのは養老度(717年の養老元年の渡海)の1回だけだった。ある船は嵐にやられ海に沈み、またある船は風に流され異国の島民に殺された。

無事帰って来た貴族や官人はその後、国内の政治に関わり名を残すことがあるが、遥か遠くの地で消えた者は名が残らない。もしかしたら海に沈んだ者で、日本に帰っていたら大成した人物もいたのかもしれない。そんなこともふと考えてしまう。

参考文献
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫

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