重源の優れた手腕と宋式の新技術によって再建された東大寺大仏殿

奈良県

1180年(治承4年)に平重衡の軍によって焼失した東大寺の大仏殿は、早くも翌年から再建が着手された。源平の争乱が始まり翌年には養和の大飢饉が起こり、国内が大変な状況になっていくなか、護国の象徴である大仏殿は再建が急がれ、平氏が壇ノ浦で滅んだ5ヵ月後には大仏開眼が行われている。平氏追討軍が西国で飢饉による兵糧不足に困っているなか、源頼朝は政府基盤が安定していないながらも米や砂金、絹を寄付しており、朝廷や寺社は東大寺を再建するために政治力をもって武家政権に協力を求めている。

この国家事業として行われた東大寺の再建に活躍した人物といえば、重源が知られている。勧進職に任命されてから各地を歩いて回りのその寄付を求め、経済的に大仏殿の再建に貢献した重源は、同時に建築に使う用材の選定や切り出しの監督にもあたっている。重源は大仏殿再建のあらゆる部門で活躍しており、建築の設計や工程管理、工人の統率にも関与しており、建築に関する知識や技術も備えていた人物であった。

時間も資金も限られたなか急がれた大仏殿の再建に重源が用いた工法は「天竺様」という宋の技術であった。これは細かな装飾を一切省略し使う木材を減らし、少ない用材で大きな建物を造ることができる工法といわれている。部分品の規格が統一されているため量産が可能となり、また工法も単純に組み合わせられるように設計されているもので、実に合理的な方法であった。

再建された大仏殿は戦国期に焼失してしまったが、南大門は当時の天竺様が残されていてその工法を観ることができる。誰でも一目で分かる特徴が、南大門には天井がないことで、わずか5種類の木材で全体の建物の80%の容積をまかなっているという(『鎌倉幕府』)。こうした効率的な組立は南大門にそびえる仁王像にも用いられており、高さ8mを超える二体の仁王像は分担制によって組み立てられている。

運慶・快慶の作として観る者に感動を与える二体の仁王像は、運慶・快慶を含む4人の大仏師が設計・監督し、それぞれ2人で一体を担当し、両グループの下には27名の小仏師と43名以上の絵仏師、12名の寺家絵仏師、32名の塗師、22名の大小工、合計380名の工人が仁王像の製作に携わっていたといわれている(その大半は他の仏像も造っている)。わずか72日間で仁王像は造られたという。

限られた工期で効率的に建築する設計が大仏殿の再建で用いられ、世界最大の建築物が造られたことは、鎌倉時代の建築史において大きな意義があったといえよう。奈良時代の工法と違うことから、当時の貴族が以前の大仏殿の方がいい言ったことも少なくなかったそうだが、優れた建築技術が広まったのも見逃せないと思う。

『重源と栄西』には宋式で建てられた南大門には、和様の技術も取り入れられていたと思われると書かれている。大仏鋳造の際に宋人が嫌がるのを抑えて日本人の工人を加えて作業を進めたことも書かれており、海外の新技術の導入と、在来技術との融合を図ったことが分かる。重源の跡を継いで勧進職を務めた栄西もこの方針は守ったとされていて、大仏殿の再建が日本の建築に大きな影響をもたらしたことは見逃せない。

最短納期で、しかも経費を削減して大きな建造物を造り上げる天竺様は、簡素過ぎるためかその後は人気がなくなり、小規模な建築に用いられるにとどまったとされている。天竺様の建物は現在では兵庫県に浄土寺の浄土堂を見ることができる。ついでに、東大寺と同じタイミングで焼かれた興福寺は、従来の復古的な様式で再興され、三重塔と北円堂は鎌倉時代に再建された建物が今でも残っているらしい。東大寺の南大門と見比べてみるのも面白いのかもしれない。

参考文献
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫
久野修義『日本史リブレット.27 重源と栄西』山川出版社(2011)

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