【小話】平安時代 武士の棟梁八幡太郎義家にまつわる伝承

歴史小話

画像は源義家前賢故実6巻(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

「武士の棟梁」「武士の長者」として知られる源頼家には、様々な伝承がある。前九年の役・後三年の役を戦った源義家は、京都から東北に向かう道中の関東で伝承を残し、また戦場となった東北で武功を残し、それらは『陸奥話記』や『平治物語』などの軍記物語に描かれている。

義家は武辺一点の人物ではなく、大江匡房に兵法を学び、和歌を詠む風流心を兼ね備えた人物として知られている。後三年の役の時に、部下の士気を上げるために剛と臆の座を設けて、その日の戦いで勇猛果敢な働きをした者を剛の席に座らせ、臆病に見えた者を臆の席に座らせたという話がある。

大雪で進軍がままならず寒さに弱る部下を見ては、自ら介抱して暖を取らせて蘇生した話。飛んでいる雁を見て伏兵の存在を知った話や、後三年の役は私的な介入だとして、中央から恩賞がもらないと分かるや私財を投げうって部下の論功行賞を行った話なども、割と知られている。

義家の伝承が後世に伝えられているのは、源頼朝が鎌倉幕府を創ったのが大きい。頼朝の先祖である義家は、鎌倉幕府が成立したことで武家の棟梁として、その戦功から人柄に至るまで神聖視され崇拝されてきた。

そして徳川家康が源氏の子孫を名乗ったことで、義家の伝承が後世に伝えられるようになった。家康ははじめ藤原氏を名乗っていて、源氏と血筋は関係ないとされているが、幕府を開く過程で源氏の末裔を名乗り、江戸時代に義家の人気が出たとされている。

画像は源義家前賢故実6巻(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

義家の伝承には納豆にまつわるものもある。永和3年(1083)、奥州平定に向かう八幡太郎義家の軍勢が常陸国で宿営した時、家来が馬の飼料に作った煮豆の残りを藁で包んでおいたら、煮豆が発酵して糸を引き、試しに食べてみると美味しく、義家に献じたところ大変喜ばれた。以来、将軍に納めた豆という意味で「納豆」と名付けられ、近郷の農家に広まった。という話もある。

納豆の元となる甜鼓は奈良時代の仏教書の『唐大和上東征伝』に記されているし、大豆の起源は紀元前300年の弥生時代にまで遡る(秋田・山口・静岡の遺跡から大豆の焼畑栽培が行われていたことがわかっている)。義家以前に寺社などで納豆は食されていたが、水戸の地域では義家にあやかってか、そんな話が今日までも続いている。

食べものに関連するものでいえば、長野善光寺の有名な「八幡屋蟻五郎」は八幡太郎義家の末裔が屋号として「八幡屋」を名乗ったものであり、義家と関係があるらしい。

八幡といえば、鎌倉の鶴岡八幡宮も義家と関係の深い神社である。東国に向かう際に、義家が鎌倉の由比に戦勝祈願のため、京都の石清水八幡宮を勧請したのが始まりで、後に頼朝が現在の鶴岡の地に移したものである。

日本で一番多いとされる八幡宮は、義家もしくは頼朝以降の源氏が広めたのかと思ったが、これは違った。義家により勧請されて建てられた社殿もあるが、八幡宮は以前から皇族・貴族の篤い信仰があり、義家の方がこれにあやかったものであった。

義家が東国に向かう際に参拝した神社として、東京府中の大國魂神社と宇都宮の二荒山神社が知られている。

参考文献
竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』中公文庫
島田裕巳『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』幻冬舎新書(2014年)

参考サイト
納豆展示館:水戸天狗納豆(株)笹沼五郎商店

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