【小話】海外で好評だった日本の醤油

歴史小話

画像は広益国産考8巻の醤油と味噌を製造している絵 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

中公文庫の『日本の歴史14 鎖国』に、日本の醤油についてこんな記述がある。

「日本ではひじょうに上質の醤油をつくる。これは中国の醤油にくらべてはるかに上質である。多量の醤油樽がバタビア、インドおよびヨーロッパにまで運ばれる。オランダ人は、醤油に暑気の影響をうけさせず、またその酸酵をふせぐたしかな方法を発見した。オランダ人はこれを鉄の釜で煮沸し、瓶詰めとしてその栓に瀝青をぬる。このようにすれば、醤油をよく保存しえて、あらゆるソースにまぜることができる」

これは一八世紀末に来日したスエーデンの植物学者カール・ペーター・ツーンベリーの『日本紀行』に記すところである。日本の醤油は、酒や味噌とともにすでに一七世紀のなかごろからオランダ船によって年々輸出され、海外で賞味された。のちには、オランダ文字で「ヤパンセ・ソヤ」と青く焼きつけられた輸出用の特製白磁瓶がつくられるようになり、この瓶は今日でもときどき骨董品市場にあらわれて、その稚拙な趣きが喜ばれている。なおオランダには、いまでも醤油の醸造会社があり、原料の大豆のことを醤油豆、つまり「ソヤ・ボーン」と呼んでいる。

岩生成一『日本の歴史14 鎖国』

バタビアは現在のインドネシアのジャワ島、瀝青(れきせい)とはタールのことである。

醤油の歴史は古く、弥生時代に今の醤油の基となる「醤(ひしお)」が伝えられたとされているが(文献では701年の大宝律令に醤を扱う職が記されているらしい)、現在の醤油のかたちに近づいたのは江戸時代中期の頃だといわれている。醤は大豆や麦(大麦・小麦)の殻粒が含まれているもので、これを搗(つ)いてペースト状にすると味噌になるのだが、現在の醤油とは違う。

数年前に江戸東京博物館に行った時にも、江戸時代中期に今の醤油に近いものが出回るまでは「煎り酒」という調味料を使っていたという展示があり、現在の醤油に近いものは江戸時代中期からだと思っていた。

だから、江戸時代初期に醤油がオランダに輸出されたことが書かれているこの記述には驚いた。濃口醬油ができる前の溜まり醤油を輸出していたのか、輸出の途中で腐らなかったのか、どれほどの量が輸出されたのだろうか、とそんなことが気になり、『醤油 ものと人間の文化史180』(吉田元著)という本を読んでみた。

醤油 (ものと人間の文化史)
醤油 (ものと人間の文化史)

残念ながら江戸時代に輸出されていた醤油の産地や味については知ることができなかったが、江戸時代初期からオランダとアジア諸国に日本の醤油が輸出されていたことは記録に残されている。『醤油 ものと人間の文化史180』によると、醤油の輸出が始まったのは寛永年間(1624年~1644年)からである。

オランダ商館を通じてアジアの各地に運ばれたことが、オランダ商館の文書に残されており、それによると以下のようになる。数が不明の場合は記していない。

1647年に台湾に10樽、1647年からトンキン(現在のベトナムのハノイ)に輸出が開始、1657年にシャム(タイ)に3樽、1659年にバダヴィア(インドネシアのジャワ島)に4樽、1665年にマラッカ・カンボジアに、1666年にコロマンデル(インド東海岸)に、1670年にセイロン(スリランカ)に、1672年にスラット(インド西海岸)、1693年にアンボイナ(モルッカ諸島)に、と輸出されている。1730年頃から輸出価格が上がり減ったとある。

容器は木製の大樽。当然腐敗するからオランダ本国まで運ぶことはできない。そのため、オランダはケルデル瓶というブランデーや蒸留水を詰めた四角いガラス瓶に醤油を入れて本国に運ぶようにしたのだ。ケルデル瓶は17世紀末から肥前有田で製造されるようになった。

醤油が運ばれた瓶はコンプラ瓶(下の写真)が有名だが、これは幕末の開港から明治20年頃までとされている。産地の波佐見では明治・大正年間まで焼いていたらしく、醤油だけでなく日本酒もコンプラ瓶に入れてオランダへ運ばれた。

オランダ人からの要望に応えるかたちで、ケルデル瓶を造り、そのうちコンプラ瓶を造るようになったのだ。余談だが、自分の中では有田焼はあたかも日本独自で発達してきたような感覚があったが、そうでないことが分かる。朝鮮から陶工を連れて来て、オランダからの注文を受けるかたちで発展してきたのだ。海外から技術を取り入れ、海外の需要に応えるという意味での生産力が日本人にはあったのだが、海外との繋がりで国内の技術や文化が発展してきたことが、本を読んで分かる。

波佐見焼のコンプラ瓶 2015年長崎歴史文化博物館にて
JAPANZOYAは醤油、JAPANSCHZAKYは日本酒の瓶を意味している

中国から伝わった醤油は本家へも輸出(おそらく木樽で)されている。正徳元年(1711年)には370樽が中国に運ばれていて、上記のアジア諸国への輸出と比べるとその量の多さが分かる。これも興味深いところである。中国から伝わったものが、本国よりも質がよいのは、醤油を長期発酵できる環境が日本は中国よりも恵まれていたことを示しているのだろう。

オランダへの輸出は、幕末から明治にかけては年間40万本(1本3合)の特約を結んだ例があり、かなりの量が輸出されていたようだ。明治初年から次第に減少したが、それでも明治40年(1907年)頃に10万本、大正5年(1916年)に3万本、大正6、7年に1万本ほどだった。減少の理由として、国内での過当競争が起こり、品質の低下による信用をなくしたことが挙げられるが、これは明治初年の輸出品に多くみられることのようだ。

そして肝心の産地や味についてだが、産地については、「関東産ではなく、関西か地元産だったと思われる」としか『醤油 ものと人間の文化史180』には書かれていなかったが、ネットでナガジンというサイトに詳しく書かれていた。

ナガジンに投稿されている『コンプラ瓶で海を渡った醤油』によると、オランダに運ばれた醤油の産地は「当時名産とされていた大坂・堺」とある。堺には当時4軒の醤油製造業者があり、堺-長崎を運搬していた生糸を扱う中国船に乗せて長崎に運んだらしい。

ありがたいことに、このサイトではその運ばれた醤油の味についても説明されていて、「澄み醤油」という、『現在の「醤油」と比べて旨みと香りが少なく、塩分が高いもの』だったことが書かれている。

溜まり醬油の後に濃口醬油ができたと思っていたが、その間に澄み醤油があったのだ。関東から醤油の歴史をみると溜まり→濃口という単純な図式になるが、関西からみるとまた違ったものとなる。江戸初期は関西が江戸を支えていて、西高東低の品質のよい多くのものが江戸に運ばれたことが改めて理解できる。

ちなみに、醤油の産地は堺だけでなく、京都、紀州の湯浅、大野(石川)、小豆島、そして龍野(兵庫県)も劣らず醤油の製造を盛に行っていた。

醤油の歴史をみると、味噌や日本酒、お寺のことも知ることができて面白いのだが、それはまたの機会にしたいと思う。

参考文献
岩生成一『日本の歴史14 鎖国』中公文庫(2019年)

吉田元『醤油 ものと人間の文化史180』法政大学出版局(2018)

参考サイト
ナガジン!<ナガジン!オススメ特集(12月)<「コンプラ瓶で海を渡った醤油」
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/index.html

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