【小話】中世に始まり中世に終わる石刻文書 板碑(いたび)

歴史小話

御岳講について知りたいと思い『武州御嶽山信仰』を読んでいたら、板碑というものを知った。本の言葉を借りると「民間信仰の、特に中世の庶民の信仰を知るのにまたとない好史料であり、社会・経済生活を知る手がかりとなる」もので、中世に大量に造られたものらしい。

そんなに大量に造られたものなら、どこかしら旅や散策をしていて目にすることがあるのだろうと思い調べて見たら、見たことのあるようなないような、馴染みのないものだった。ちょうど数ヶ月前に、國學院大学博物館に行った時に見慣れないもので面白いと思って撮った写真が一枚あり、それが板碑だということにその時気付いた。

『板碑と石塔の祈り』(千々和到著、山川出版)を読んでみると、板碑は中世に関東だけでも4万基も作られたが、作ることに意味がありその後は壊されることが多く、またどこかに保存されるようなものではない事を知った。道理で目にする機会が少なく、馴染みのないはずだ。ついでに、板碑が造られたのは関東だけでも4万基だから日本全国でどれだけ作られたのかは想像できず、それだけ大量に各地で作られたものなのだ。

國學院大學博物館にて

板碑(いたび)とは、石製塔婆の一種で、青石塔婆、板石塔婆とも呼ばれている。写真にあるように、扁平な石材を用い、頭部を三角形に切り、その真下に二本の横線を刻み、その下部に造立者の信仰する仏や菩薩を梵字で示したものが、一般的である。画像・名号・題目などが刻まれていることもある。

北は北海道から南は鹿児島まで、各地域毎にその地域の特色をもったものが散在しているが、関東地方では荒川流域が最も密集しているらしい。石材は、秩父付近から産出される青石を使用したものが多数造立されている。

板碑には決まりがあって、梵字や図の仏が刻まれていること、板碑が造立されたと思われる年月日が刻まれていること、板碑が何のために立てられたかを記す「造立趣旨」というものが刻まれていること、の三つの決まりごとがある。三つ目の造立趣旨は必ずしもある訳ではないが、東北地方の板碑には割合これが多いとされている。

板碑は1200年〜1500年頃に造立され、「中世に始まり中世に終わる石刻文書」(『武州御嶽山信仰』)とも言われている。作られたのは1300~1390年頃が最も多いらしい。板碑は石塔の一種であり元々は自己の死後を生前から祈願するものであったり、死者の追善供養をするためだったが、中世末期とりわけ室町時代後半より数人あるいは数十人の銘が刻まれたものが出てくる。

人々が結衆して祈願成就のために講を結成して、講の促進と村落経営の自立化のために造立するようになったのだろう。鎌倉仏教の影響があると思われる。聖(山伏)が活動の場を山から里に変えた時期でもある。庶民たちの手によって建てられたというのが興味深い。

参考文献
西海賢二『武州御嶽山信仰』岩田書院(2008年)
千々和到『板碑と石塔の祈り(日本史リブレット)』山川出版(2007年)

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