【小話】海を渡る古代の馬

歴史小話

九州各地に残る古墳の石室の壁面には、船の上に馬が大きく描かれていることが多い。中国や朝鮮の古墳の壁面に描かれている絵は被葬者の功績を表すもののようだが、同じように考えると、九州の古墳に埋葬された豪族の大きな功績は馬を朝鮮に輸送することだったといえる。

多くの馬を安全にしかも元気に運ぶことは、朝鮮での戦争を有利に進める重要な条件であった。人にも増して大量の馬を朝鮮に運ぶのは、苦労を要するものだったらしい。

また、日本書紀には馬が輸出された記述がある。6世紀前半、継体天皇の時代に日本から朝鮮半島の百済に九州産の馬が送られている。これが馬の輸出に関する最初の記述となるが、これらのことから古代の日本では馬を飼育しそれを半島に輸送していたことが分かる。

Wikipediaによると古来から常に日本に馬がいた訳ではない。先史時代・氷河期には日本列島に馬がいたが、氷河期が終わると草原が減少し森林化が進み日本列島から馬は存在しなくなった。そして古墳時代になると朝鮮半島南部からの軍事的な要請から馬の輸入が開始されたとある。

『日本の歴史1 神話から歴史へ』には、4世紀末の応神王朝の頃に乗馬の技術が伝わった可能性が強いと書かれている。半島での高句麗との闘いで騎馬隊に散々に打ちのめされてから、日本で馬の軍事的利用の必要性を痛感し、日本が支配していた任那から馬の飼育方法や軍事利用の方法が日本にもたらされたようだ。

元々日本に無かったものが国内で生産されて半島に輸出されるようになる過程は、一昔前の「モノづくり日本」を思わせるもので興味があり、馬について何か知れないかと思い『「馬」が動かした日本史』を読んでみた。

すると、日本列島には馬の繁殖に相応しい草原があったため、朝鮮から馬が運ばれ繁殖されるようになったことが書かれていた。朝鮮では馬の繁殖に適した草原が少なく、あっても規模が大きくないため馬の数を増やすのには限度があったのだが、日本では火山の多い黒ボク土が豊富にあり、黒ボク地帯は草原が豊かで馬の飼育に適していた。そうしが理由から日本の各地で馬の繁殖が行われるようになったらしい。

馬の飼育は五世紀に大坂の河内地方で始まったとされる。現在は埋め立てられている河内湖の近くにサララの牧があり、その北に楠葉牧があり南に行くと坂門牧がある。大阪は平地が少なく米作りには適さない土地で江戸時代は綿作が行われた土地なのだが、この坂と川が天然の柵となり馬の飼育に適していたそうだ。ついでに、時代が下ると坂門牧は河内源氏の拠点であり、更に南に行くと楠正成の拠点となる。

河内と言えば、百舌鳥古墳群や古市古墳群が有名だろう。五世紀の巨大古墳が奈良ではなく河内に出現した理由については、当時の技術では奈良はこれ以上開拓できないから河内平野を開拓した、河内に当時権力を持った天皇の親族・豪族の拠点があった、朝鮮への進出のために海に近い所に拠点を置いたなどの理由が挙げられることが多いが、『「馬」が動かした日本史』では馬を育てる牧があったからではないかと書かれている。馬と巨大古墳にほ大きな関係があることから、馬には経済的な価値があったと考えることができるのだ。

仏教が広まる以前の古墳時代は、権力や財力を誇示するシンボルは古墳だった。古墳に埋葬される被葬者の地位や権力を示す物は鎧や兜、刀剣、銅鏡などが知られているが、馬具もそのうちの一つである。巨大古墳が馬牧の近くにあるのも興味深い。先述の河内の巨大古墳の他に、九州最大の古墳がある宮崎の西都市、東日本最大の古墳のある群馬県太田市、全国で最も前方後円墳が多い千葉県には多くの馬牧があり、巨大古墳からは馬具が発見されている。

参考文献

井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中公文庫(2020年)

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蓮池明弘『「馬」が動かした日本史』文春新書(2020年)

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