【本のレビュー】奈良時代『日本の歴史3 奈良の都』青木和夫

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本の概略

扱う時代は、31年振りに遣唐使が任命された大宝元年(701年)から称徳天皇が没す770年までとなる。血生臭い皇位継承を経て完成した中央集権国家は、大宝律令と共に始動する。和同開珎が造られ、華麗なる平城京が造られ、都では多くの人々が働き、律令国家がスタートする。貴族が高い理想を持ち国政にあたり、遣唐使が再開され、新たな都で力強い時代が幕を開け、後に天平文化が花開くこととなるが、そんな奈良時代も720年、740年と時代が下るにつれ暗い影が見えてくる。

連年の不作に地震、そして疫病が起こり、これといって大した政策が出されることもなく、藤原家と他の貴族が交互に権力を手にしていく権力闘争が繰り返し行われる。平城京を出た聖武天皇は5年にわたり彷徨し、都の造営には国民が駆り出され多額の出費がかかるが、その上更に大仏造立や国分寺造立が行われ、国家の財政が著しく悪化する。財源確保のために出された墾田永年私財法は、土地公有の原理を覆し、以後荘園ができる原因となる。

聖武天皇の後の称徳天皇は、道鏡を重用し、僧侶が大臣・参議の席を占めるという前代未聞の事態が続く。少数の道鏡一派では複雑巨大な行政機構を運営できるはずもなく、かといって藤原氏をはじめとした朝廷貴族は何の政策も出さず、仏教政治という名の下、無責任な時代となる。政治的裁判は連年酷くなり無暗に皇族が処刑され、軽々しく力役を起こし伽藍を造り、国家の財政は窮乏していく。

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読んでよかった点

学校で習うような為政者の歴史が延々と書かれている訳ではなく、奈良時代の文化や庶民の生活についても詳しく説明されている。平城京造営に駆り出される百姓や郡衙(郡司の拠点となる各国の役所)で働く百姓の生活がどうのようなものだったのか知ることができるし、住んでいる住居や農業の一年サイクルなども書かれている。

『日本霊異記』に記されている説話が各所に挿入されていて、当時の人々の暮らしが分かるし、文化的な話も多い。平城京のことや奈良の大仏、正倉院の話は興味深く、読んでいて奈良に行きたくなってしまった。奈良のガイドブックとしても楽しめる本だと思う。

それなりに難易度があるし読むのに時間がかかるが、政治の話一辺倒ではないので飽きずに読むことができる。シリーズ3作目となる今回も読み応えがあり多くのことを学べた。今回もいつものように、個人的に興味の持ったことを幾つか書いてみたいと思う。

大宝律令

血生臭い皇位継承を繰り返し、飛鳥時代にできあがった天皇による中央集権国家は、大宝律令とともに始動するが、この大宝律令の施行は大変なものだった。まず、律令と作る期間が僅か一年ちょっとという短期間。その前に編纂されていた浄御原令は、編纂から一部実施まで4年かかり、養老律令は2年経っても未完成だった。それを1年2カ月ばかりで作り上げたのは、持統天皇から大きな重圧があったかららしい。当時の名だたる貴族・学者が集められたが、中には完成を待たずに死にんだ者があり、完成後に相次いで死んだ者も多く、その業務の過酷さがうかがえる

そして完成した律令を中央・地方の諸官庁に漏れなく配布するためには、一字一句の誤りなく写さねばならない。大宝元年8月に完成した律令は翌2年の10月に必要な部数が写し終えたらしいが、この大量の写本にも多くの労力がかけられている。

そして写本と並行して、地方への講義も行われた。大宝律令の編纂に携わった法律に詳しい博士が、地方に出向いて律令を講義するのだが、これは律令の写本が各官庁に送られる前に行われている。大宝律令が完成するのは8月だが、その前の6月には全国に実施命令が出され、その更に前の4月には中央で講義が開始されている。テキストは講義をする博士しか持っておらず、講義をする博士は中央で講義を終えた後は地方に赴き、国司・郡司に講義を行っていく。

当時、地方の長官に任命された貴族が赴任先への道を急ぎ、風光明媚な所に目もくれず遅くまで移動した例が史料に残されているが、各地で講義をした博士たちも同じような行動をしたのだろう。当時の貴族(官人)が高い理想を持っていたことが分かる。

平城京の造営

平城京への遷都の理由は飢饉疫病から逃れるため、より交通の便のよい地へ移動するためといわれることがあるが、詔そのものが挙げている理由は平城が四神相応の地だということである。東に川があり(青龍)、西に道があり(白虎)、南に池があり(朱雀)、北に山があれば(玄武)、四神を漏れなく巡らした最良の地となる。

東西約4.3km、南北約4.8kmの長方形に今日の奈良市街にほぼ相当する東の部分を合わせた平城京の造営には、多くの労働者が従事した。造営に必要な土の量や労働力は貴族が計算して割り出している。これは、上流貴族が算術のような技術を自ら身につけていたことを示しており、貴族が自ら実務を担当した8世紀らしい現象といえる。また、土木事業には人使いの上手さも不可欠で、軍事に明るい武門の貴族が担当している。人使いがまずくなくても労働者の中から逃亡者は出るもので、常に武装した兵士で労働者を監視することに慣れている武官が加わるのがごく当たり前だった。

平城京の造営に増員された数は不明だが、羅城の部分だけでも12万人といわれている。同じ大きさに近い長岡京の造営には延31万人の役夫が雇用されたらしいから、それくらいの労働者がいたとも考えられる。

奈良時代には無報酬だった実例は見当たらず、大宝律令の雇役制度では食料や賃銀を支給していた。工事現場で支給される食糧は、1日に玄米8号と塩1勺で雨が降って仕事がないと半分になる。労働時間は連日朝から夕方、夏の2カ月間は2時間の昼休みがある。官人は6日毎に休みがあるが、役夫は雨が降らない限り休みがない。

逃亡する者は後を絶たず、役夫を監視する衛士までも逃げた。無事労役が終わっても国元まで帰れる保証がないからだ。帰路の食糧は自身で用意しなければならず、労働期間中に食料を確保できなかった者は飢え死にするしかない。そうした環境が役夫の逃亡を後押しした。

平城京には大きな溜池が造られ水路が引かれていた。物資を運ぶためだが、引っ越しの際にも車ではなく川による舟運で荷物が運ばれた。遷都や寺院の移設の際にも水運が使われ、解体した材木は筏(いかだ)に乗せられて川を移動した。

平城京で働く下級貴族も敷地内で暮らし、割り当てられた土地には家を建て、井戸を掘り、畑を作る。給与は布などの現物支給で、それを市場で他の物と交換する。繁農期には役所の仕事を休んで農作物を作る。そんな暮らしをしていた。

土臭い貴族

本の中では、律令制開始時の貴族を「土臭い貴族」と書いている。先述の平城京の造営とは別に、国司による農民への農業指導も行われており、ここにも貴族自らが実務をこなす8世紀の特徴が見られる。

律令制が敷かれたのは国が多くの税収を得るためだが、百姓から搾れるだけ搾り取ろうとせず、より収穫量を上げ、そして凶作に備えるために、国司はそれぞれの赴任先で農民に米以外の作物を育てるように指導している。ただこの品種をこの時期に植えろと言われても地方の百姓が分かるはずもないから、国司自らが百姓の手本となり、農業指導にあたった。

また、貴族の妻も農業に明るい。大伴家持の妻が残した歌には、稲を育てて農作業をしていることが歌われている。大納言の孫娘でもある大譲が自ら早稲を撒き、稲を育てていることが歌から分かるのだが、当時はそれほど珍しいことではなかったらしい。貴族の妻が田を作るのも、その夫が稲の品種や田植えなどを知っているのも、ごく当たり前だったようだ。

地方への指導といえば、711年には朝廷が織部司に勤務する織物の技師を諸国に巡回させて、綾や錦の織り方を講習させている。綾・錦を調の一部と認め、それを収めれば他の物を納める必要はないといっているから、教わる百姓としては税が重くなる訳ではない。

遣唐使で自らの命をかけて唐に行き優れた技術や情報を持ち帰った者がいたように、8世紀の貴族には高い理想がみられる。自ら農民を指導する貴族、自ら畑を耕す貴族、多くの書類作成に注力する貴族、命をかけて唐に向かった貴族と、高い理想を持っていた事が奈良時代前期から中期までの特徴として挙げられる。

貴族の財産・位

大宝律令の編纂にあたった下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)は、編纂の10年前に600人の奴婢を解放した記録が残されている。『懐風藻』や『万葉集』では長屋王らが何かといえば宴会を開いた記録も残されている。当時の貴族の裕福さを具体的に描き出した史料はないものの、これら断片的な事実から、当時の貴族がいかに巨大な富を集めていたか想像できる。

貴族には仕事に対する収入のみならず様々な特権があり、その特権は子孫にまで保証されていた。官人に対する給与は季禄と呼ばれる絁(あしぎぬ)・綿・布・鍬の年2回の支給だったが、五位から上の位になると様々な特権が付いてくる。四位・五位ではまず資人という警護や雑務をこなす人が付与され、絁や綿、布などの位禄と田畑、場合によっては私有地も年棒として更に追加される。これが一位~三位となれば、位禄はないものの膨大な位田と位封(私有地と私有民)が与えられる。

正従二位の左右大臣クラスで、現在の金額に換算すると少なく見積もっても年収1億となり、しかも税金が免除されていたらしい。律令制が施行され時に既に大きかったこの格差は、格(きゃく)と呼ばれる律令の部分修正が行われる度にむしろ広がっていった。そして貴族であることは裁判でも優位であり、唐とは違った制度であった。

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郡司

律令の規定から郡司を見てみると奇妙なことがいろいろとある。郡司は最初任命された時にもらう官位が決まっていて(大領が外従八位上、少領なら外従八位下)、一般官人のように位階が上がればそれに相当する官職に移るという制度がなく、また位階によって給与が支払われる訳でもない。一生転任しないので栄転といううまみが最初からなく、識田がもらえるだけである。本人の人柄や実力よりも家柄が任命される基準に重きが置かれ、終身官のため位階は上がっていき国司よりも位階が高い場合があるが、国司に対して馬から降りて敬礼しなければならない。律令制では位階が身分だから本来そのようなことはあり得ないのだが、国司と郡司という関係になるとそうしたことが規定され、律令制の原則から外れたことがまかり通っていた。

郡司と言えば、忙しかったというイメージがあるかもしれない。6年毎に作成される戸籍はかなりの大仕事となる。国司は各郡に戸籍作成を命じて出来上がった物を6年前の者と照合して都に送ればいいのだが、郡司はそうもいかない。郡内の里長(郷長)を動員して過去6年間の出生・死亡などの人口の変化をいちいち確かめ書生に戸籍の下書きを作らせ、更に三通も清書させなければならなかった。極めて多忙だったことが分かる。

郡司の仕事は郡衙(ぐんが)と呼ばれる役所であったが、ここには多くの郡司の手下が住んでいた。郡司では書ききれない大量の公文書を処理する書生や護衛や雑用をする駆使丁(くしてい)、厨房でご飯を作る者、器や紙を作る者、松明のための木を伐る木こり、暖房のための炭を焼く者、馬の世話をする者と、様々な人達が暮らしていた。これらの人々は年間60日課せられる雑徭として従事していたため、ただで働いている。

郡司は国から収奪されたが、それでも儲かっていたらしい。朝廷が貧民のために無利息の稲を貸し出せば、国司と結託していち早く借りてきてそれを利息を付けて農民に貸し出せば利益が得られるし、徭役の徴発の際にもごまかして私利を図る余地があったらしい。そういうことをしなくても二町~六町の識田が支給されるが(大領に六町、少領に四町、主政・主帳に二町)、国司の識田は最も大きな国でも二町六段だから、それなりの収入があった。

大化の改新後に地方豪族からこれらの田畑を没収できなかった朝廷は、郡司の祖先となる国造が貯めた財産を収奪することに注力したが、郡司は郡司の方で私利を図り財を蓄えていく。郡司が財物を朝廷に寄付して位をもらった例があるが、同様に稲を寺社に寄進したり、溜池を自費で造って開墾して寄進したりして、位が上がった例もある。外位ではあるが、位は買えたとうことをこれらの事例は示しており、自国の領民から絞り取った郡司がいたことも想像できる。郡内に暮らす人々は貧富の差が開き、郡司に依存しなければ生活できなくなる階層がその後増えていき、律令国家の支配体制の基礎は揺らいでいく。

村人の生活

律令制の根本である国が持つ土地を農民に与えて死んだら収公するという班田収授には、意外な面がある。満6歳以上に受田資格があることはよく知られているが、6歳になればすぐにもらえるといったものではない。実際は、どんなに早くても数え年で10歳の春から、運の悪い子は16歳から田が支給されることとなる。

班田収授の規則には耕地が乏しければ足りなくてもいいと規定されており、実際に田が不足し、規定されている広さよりも少ないケースが多い。支給される口分田も自分が耕せる場所とは限らない。志摩国の百姓に与える口分田を隣国の伊勢や海のかなたの尾張国で支給しているケースもある。そうした場合は、遠地のその土地の百姓が田を耕し土地代を支払うといった賃租が行われた。地子は収穫の5分の1というのが相場だったらしい。

村人の税として庸・調というものがあるが、父や夫、息子名義で課せられる税は母や妻、娘が実際のところ負担した。都での労働の代わりに織物を収めるものだが、朝廷では調に20日、庸に10日の日数が計算されていたと言われている。しかし、はじめから材料がありそれをその期間内に織ればいいというものではなく、楮などの木の皮を剥ぎ、打ったり曝(さら)したりして糸にすることから始めなくてはならない。絹や絁(あしぎぬ)を織るなら、桑を摘み蚕を育ててといったところから始め、海に近い所では機織に使う錘(おもり)は貝にしろと規定があったらしく、海に潜って取ることがら始めなくてはならなかった。

村人には毎年出挙がある。稲を春に貸し付けて秋の収穫後に3割~5割の利息を付けて返させるといった、高利息の押し付けがましい制度たが、借りる百姓の方も抜け目なく借りている。借りたまま返さずに死んだため、国司がやむを得ず免除したケースが少なくない。女性が名義人になって借りているケースが少なくなく、真っ先に死にそうな老人・老女を名義人にして借りたことが考えられ、当時の百姓の逞しさがうかがえる。

和同開珎

奈良時代といえば和同開珎も見逃せない。和同開珎が発行された708年(和同元年)の前にも銭貨はあったが、それは記念品やまじないとして贈答や遊戯、儀礼の場で使われるもので、交換手段という本来の機能ではなかった。物を買うのではなく、物で銭を買うために、貴族や豪族の間だけで流通していた。

朝鮮半島で百済・高句麗が相次いで滅び多くの亡命帰化人が渡来するようになると、半島から伝わった鉱物の知識により、667年(天智7年)には越の国から石油・石炭が献上され、それを皮切りに日本の各地で瓶や錫を含む鉛、銅などの鉱物が発見されるようになる。銭を造る材料が確保されるようになり、和同開珎の発行に至るのだが、発行当時は必要額を造り終えると技術者は解散し、再開する時は新しい型が交付されたらしい。流通している銭をそのまま型に使うと、鋳造する際に銅が収縮する関係で小さいのができてしまうかららしい。

和同開珎は日本各地はもとより中国東北部にあった渤海の城跡からも発見されているため、広く流通していたように思えるが、実際のところは畿内周辺の国に限られていたようだ。伊賀・伊勢・尾張・近江・越前・丹波・播磨・紀伊などの畿内周辺の八カ国くらいだとされているが、平安時代になると更に狭まり京と畿内五カ国だけになる。

711年(和同4年)には交換手段としての和同開珎を広めるために、官人の給与の大半を銭で支給し、銭を蓄え朝廷に納めれば位階を与える旨を出し、銭の放出と還流の大きな流れをつくる。翌年には、都で雇役していた役夫の賃金を銭で支払い、諸国から送られてくる庸調も銭で送るように命じている。そして諸国から初めて銭が送られてきたのは722年(養老6年)で、その時送って来た国が先述の畿内周辺の八カ国である。

こうして、和同開珎が季禄や賃銀として支払われ、租税や叙位で回収されるシステムがつくり上げられる。遠隔商人もその流れに大きく関与しており、寺から多額の資金を借りて越前の敦賀まで行き、北陸の各地から集まる米などの様々な物資を買えるだけ買い、都で売り捌いたという話が残っている。遠隔商人が都から銭を持ち出して地方で豪族たちから大量の物資を買いつけ、都に運んで売る。豪族たちは商人から得た銭で位階を買う。そうした流れができていた。

714年(和同7年)には早くも詔で贋金があることが示されているが、当時は道具と材料があれば少人数で密造できるようなものだった。銅銭造りに必要だったしろめ(錫を含む鉛で漢字は白の偏に葛と書く)は新羅から密輸され続けたようで、北九州で主に造られ、760年(天平宝字4年)には本物と贋物が半々になっとなんてことも言われている。これは後に万年通宝を発行させるために理由と考えられ割引く必要があるが、朝廷は幾ら刑罰を重くしても埒が明かないことに気づき、753年には主犯の刑を斬刑から一等軽くして遠流にしている。殺さずに流罪地で銅銭を造らせようというのである。服役者は767年には少なくとも40人はおり、逃げられないように足かせに鈴を付けられ、銭を鋳た。

国分寺と大仏造立・仏教への傾斜

天平2年(730年)には平城京をはじめ諸国に盗賊・海賊が横行し、天平7年(735年)には新羅から天然痘が入り流行し、天平12年(740年)には聖武天皇による5年にわたる彷徨が行われる。朝廷貴族の間では世代交代の時期となり、治世よりもまず自分が政権の座につくことを優先し、橘諸兄の時代には政権に指導性というものが欠けた「無責任の時代」となる。

国ごとに置かれ国費で造営維持される国分寺が全国で造られるようになるが、この費用は多額であった。天平9年(737年)には凶作と疫病に対して国ごとに釈迦像一体と脇侍二体を造り、大般若経一部を写すよう命じ、760年には国ごとに七重の塔を一基造り法華経十部を写すことを命じ、また藤原広嗣の乱の平定を祈って七尺の観音像一体を造り観音経十巻を写すことを命じ、そして741年に七重の塔一基を造り最勝王経と法華経を各十部ずつ写し、国分寺を僧寺と尼寺の二寺に分けることが命じられた。

地方の国々は技術者も財源も中央に吸い上げられ乏しく、寺院の造営には長い歳月がかけられた。造営を始めたのは連年の凶作と疫病の後だ。朝廷は一向に進まない事業に、水田を僧寺には90町、尼寺には40町ずつ追加し、郡司には3年以内に塔・金堂・僧房を造り終えたなら、その子孫を絶えることなく大領・少領に任じようといって釣った。

奈良の大仏が廬舎那仏なのはなぜかというと、当時唐から新しく入ってきた華厳(けごん)の教義に聖武天皇が惹かれたかららしい。盧舎那仏は華厳が説く世界をあまねく照らす本尊で、釈迦のようにこの世に生まれてくる仏ではなく最初から極楽浄土にまします仏である。それまでの日本人にはほとんど親しみのなかった廬舎那仏が崇拝されたのはそういった理由がある。

大仏造立といえば、知識の力が見逃せない。行基が多くの庶民を集めて土木事業をしたことはよく知られているが、知識という百姓による自発的な参加が大きな影響を与えた。無償で労働奉仕した知識の総計は42万3千人との記録がある。大仏造立の前は知識を禁止していた朝廷も、それを利用することにし、功績のあった僧には位階を、労働者には僧になること許可することで事業を進めた。

奈良の大仏というと、どれくらいのお金がかかったのかとか、どれくらいの人数が働いたのか、そういう事が書かれている本が多いが、この本は国分寺にしろ大仏にしろ不安定な時代が仏教への傾斜に拍車をかけ、それが律令制を後退させていった流れが書かれていて面白い。

律令制の後退

膨大な費用を投じた大仏造立や国分寺の創建、天皇の遷都による建物や橋の建設は、知識の力によって何とか建造されるに至った。しかし、僧侶に対して位階を与え、働いた百姓に対して出家の許可を与えるということは、税の収入の減少を意味する。収入が減り支出が増大する訳だから、国家の財政は著しく悪化し危機的状況となり、国司が国家から無利息で借りた稲を人民には利息を付けて出挙することが公然と認められるようになる。この政策によって、租庸調を中核としたかつての体系から本格的に離れることとなった。

東大寺の大仏を造営しようとした時、官位の授与や出家の許可よりも大きな報酬として朝廷が思いついたのは、墾田永年私財法である。これは土地は国のものという律令制の原則を崩すものであったが、土地の私有を望む皇族・貴族・豪族の強い要求に早急に応える必要があったようだ。これにより、国司は毎年規定額の租税を中央に送りさえすればあとは自由裁量しかも出挙による大きな収入の保障もあり、以降の荘園制を大きく加速させることとなる。

作物の増産による税の収入を目指し、かつて農業指導をしてまで地方行政の指導徹底を図ろうとした高い理想を持った貴族の姿はもはやなくなっていた。「中央集権制度の中核が空洞化」し、「聖武天皇譲位後、橘奈良麻呂の事件にいたる8年間には特記すべき政策がない」と著者は書いている。

仏教政治

孝謙天皇が復位して称徳天皇となると、道鏡を重用した仏教中心の政治が約7年続く。造寺造仏事業が盛んになる740年代を境に、僧になる資格がかなり甘くなるのも、仏教政治の特徴である。僧になれば租税が一切免除され、他にも国家の様々な保護を受けることになっていたから、本来資格獲得の手続きはかなりやかましかった。

多くの経典を読経し、誦経(しょうきょう・経典を暗誦すること)、誦呪(しょうじゅ)、誦礼(しょうらい)できることが求められていたが、それがそのうち読経できればいいこととなり、仕舞いには学歴も読経もいらない、大仏殿建立などの土木事業に従事し、また寺の雑務にあたった日数だけを書けばよくなってしまう。学問も何もせず縁故関係と勤労奉仕だけで僧尼になる者が、745年から見え始め、次第に増えていく。

僧侶が大臣・参議の席まで占めるといった前代未聞の事態が起こり、朝廷内では女帝の目に留まった邪魔者は連日政治的裁判にかけられ無暗に処刑されるようになったという記録があるが、著者は次のように書いている。

「仏教政治などというけれど、この時代に政治らしい政治はまったくなかったといってよかった。したことといえば、仲麻呂時代の唐風の官名をもとどおりにするとか、養老律令を施行したために六年になった考課期間をやはり四年に戻すとか、道鏡の実弟弓削清人ら近親十四人を、あっというまに五位以上の高官にしてしまって、人をあきれさせたことのほかには、もはや乏しくなりつつあった国費を、寺院・宮殿の造営などに、さきざきの慮(おもんばか)りもなく注ぎこんだことぐらいであろうか」

青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』p525より


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感想

長くなってしまったが、いろいろな事を詳しく知ることができた。また、短い文だがなるほどと思えることが所々に書かれていて勉強になる。例えば、「地方財政の権限を国司・郡司に一任したのも、大宝令による地方行政に必要な諸経費をまかなわせるためであった」、「仏教を蝦夷や隼人をおとなしくさせるために使いはじめたのは、前世紀末の持統朝からである」、「国内の不満をそらせ、専制を維持するためには、辺境や外国との緊張関係をつくるにかぎる」、「東国の人たちを、なぜ遠い北九州の防備に使ったのかということについては、古くから、東人の勇敢さという面が強調されているけれども、じつは被征服者のなかの支配層からは人質をとり、勇敢な戦闘員は他国へうつすという、大和国家以来の朝廷の政策によったのだと思う」、「京と畿内とには、天皇のひざもとという意味で、調は諸国の半額、庸は全面という特典があった」などである。

また、政治的な話だけでなく、文化や宗教の話も興味深いものだった。日本で現存最古の印刷物(百万塔陀羅尼経)や華厳の世界観、正倉院に納められている宝物の話など、日本の文化や宗教について知りたい人にはおすすめの話がいろいろと書かれている。

先述の、班田収授は満6歳以上に受田資格があるのになぜ早くても10歳からなのかといったことや、逃亡者が相次いだ都での労役はいかなるものだったのかといったことなど、個人的に興味を持ったことは幾つか「小話」で書いてみたいと思うが、とても全て書ききれるものではない。興味のある方は是非とも本を読んでもらいたい。ここで書いたことがより詳しく、分かりやすく書かれているし、ここに書ききれなかったこと、例えば奈良時代の女帝、藤原四兄弟、恵美押勝、遣唐使の話や華厳の教義なども書かれている。

今一つだった点

読む際の注意として、奈良時代を知るには他の本も読むことをおすすめしたい。というのも、奈良時代は「木簡の時代」といわれるほど木簡抜きには語れないが、この本が出た当時はまだ木簡の解読が進められておらず、木簡については語られていない。また、その後各地で多量の木簡が発見され、それらが解読され新しく分かった内容も当然書かれていない。なので、より奈良時代を知りたい人は、他の本も読む必要がある。

また、著者は律令制が後退したと書いているが、近年の研究により「奈良時代を通じてむしろ律令制は全国に浸透していったとみるべきなのである」とし、律令制が崩壊したという捉え方は修正した方がいいと、巻末の解説には書かれている。この本を読む限りは、墾田永年私財法や公出挙によって律令制は崩壊していったと思えるが、他の本を読んでみると、巻末の解説の意味が理解できる。この点でも、少なくとももう一冊は他の本を読む必要があると思う。

個人的にもう少し知りたかったことは、聖武天皇の時代以降、仏教に傾倒していった原因である。聖武天皇や称徳天皇は仏教という宗教に溺れたのだろうか。仏教という統治装置を使って中央集権をより自身が目指す所に結びつけようとしたのではないか。結果としては、仏教政治によって公地の原則が崩れ墾田永年私財法が施行されることになるが、結果だけを見ると、土地の私有を強く望む皇族・貴族・豪族が仏教を利用して私利を得ようとしたことも考えられる。

外交面では渤海を絡めた日・唐・渤・羅の四カ国外交について知りたいと思ったし、国内では奈良時代の特徴である国司制度についてもう少し知りたいと思った。また、本の中で藤原仲麻呂が唐かぶれの見栄っ張りと批判的に書かれているが、彼の政策を見る限り反対の印象を受けた。その辺りのことは、本が出版された時代を感じてしまい、少しもの足りない気がしないでもなかった。

青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫(2020年)

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