【小話】奈良時代 貴族や官人ががむしゃらに働いた政治的都市 平城京

歴史小話

奈良時代の本を読むまでは、全くといっていいほど平城京に興味がなかった。2015年の夏に仕事を辞めて電車で日本一周をした時は、奈良の有名なお寺を幾つか回ったが、平城京には見向きもしなかった。当時はまだ平城京歴史公園ができていなかったが(2018年に開園)、できていたとしても行ってなかっただろう。

日本史にそれほど興味を持てなかった当時の自分なら、ただっ広い敷地を歩いたところで、これといって特に興味を持てそうなものもなく、皇族・貴族の道楽のために造った宮に行ったところで…なんて思っていた。そんな平城京も奈良時代の本を読んでどんな経緯で造られたのか知ると、不思議なもので興味が出てきて行きたいと思うようになってしまう。

平城京の遷都は710年(和同3)のこと。その前の藤原京に16年しかいなかった理由はいろいろあるが、本を数冊読む限りでは、中国の四神相応の配置によるものというのが一番の理由らしい。四神相応は風水でも知られているが、東に川があり(青龍)、西に道があり(白虎)、南に池があり(朱雀)、北に山があれば(玄武)、四神を漏れなく巡らした最良の地となるという中国の思想である。この配置なら政治がうまくいくというのだ。

31年振りに再開された遣唐使で唐に渡った粟田真人が帰って来たのは3年後の704年(慶雲1)。唐を見倣って造ったはずの藤原京は、最新の長安の都と大きく異なっていた。藤原京では宮殿が中央にあるが、長安は北端にある。これは天子南面という思想にようるものだが、藤原京が唐との国交が途絶えていた時期に『周礼』に記されているものによって造られたため、唐の都とはかけ離れていたものになってしまったらしい。

長安の都は北が高く南が低く、北の端に宮を造り、宮の中でも皇帝の居場所は最も高い所にあり、皇帝はそこから南を向く構造になっていた。宮は15mも高くなっていたらしい。藤原京は宮が真ん中にあるだけでなく、南がやや高くなっている。この違いが平城京遷都の理由の中で最も有力なものとされている。

遷都の理由は他にもあり、飢饉疫病から逃れるため、より交通の便のよい地へ移動するためともいわれている。飢饉や自然災害が発生し、衛生環境が今よりも悪い飛鳥時代は疫病が蔓延することがあり、また藤原京は山陽道・東海道の幹線道路から離れていて、物資の運搬が不便であった。頭角を現した藤原不比等が旧勢力から離れて新たな地で政権を担いたいと欲したともいわれている。

特に衛生環境は悪かったようで、藤原京は汚水の悪臭が酷かったと『続日本紀』に書かれている。藤原京では街路に側溝を作り、水を各邸内に引き込み、トイレを通過された水を再び側溝に流す構造だったようだ。汚水の排水溝が造られ、画期的に思える造営だが、側溝の水は常に豊富とは限らず現実的には失敗だったようだ。渇水期は京の内外に悪臭がし、穢れた場所となってしまったともいわれている。また湧水が起こる沼地が多かったようで、ごみの処理も追いつかなかったようだ。

そうした理由から平城京へ遷都したが、ただ新しい綺麗な場所に移動したかっただけではない。新しい場所で、新しい政策を施行したかったから都を移したのだ。701年(大宝元年)の大宝律令である。唐を中心とする世界から身を置き、日本は日本で独自の世界を創るためには不可欠であった律令を広めるために、新しい都でスタートする必要があった。平城京は皇族・貴族が優雅な暮らしをするために造った都ではなく、膨大な文書作成をはじめとした新しい国家事業を始めるための、いわば政治的都市だったのだ。

冒頭で触れた貴族が道楽をしていたというのも間違ったイメージで、むしろ律令開始直後の奈良時代の貴族は働きに働いている。馬鹿真面目なほどに働いている。結果としては過重労働が実態には合わないものだと後に分かり緩くなるが、律令制施行当初はまだまだ不明確なものがあり、まずは規定通りに正確にこなそうという特異さがあった。ついでに真面目さと関連して書くと、平城京には長安の都と違って酒場がなかった。

「小話」で書くが、奈良時代の初期は高い理想を持ちがむしゃらに働いた貴族がいた。そして平城京には貴族だけでなく、中級官人と呼ばれる正規で働く職員や非常勤で働く下級官人もいた。貴族の数よりも中級・下級官人の方が多く、名もない多くの官人たちが律令を支えていた。

(後日、「小話」で高い理想を持った貴族、中級官人たちの奈良時代、下級官人たちの奈良時代をアップします)

そんな国家の一大プロジェクトを始めた場所である平城京は、遷都してから約70年、7代の天皇が治世を行った。そして現在は世界遺産に登録されている。現在までに50年以上も発掘調査が行われているが、調査を終えたのは全域の約3分の1らしい。これほどの広い面積が発掘された都は日本はもとよりアジア全体を見渡しても他になく、その発掘の成果と地下遺構がよく残っていることが平城京の価値なのだそうだ。

これまで全く興味のなかった平城京も、奈良時代のことを調べてみると面白く感じるもので、見に行きたいと思ってしまう。現在、平城京歴史公園には復元された朱雀門や太極殿、庭園があり、休憩所やお土産屋も充実している。平城京いざない館という資料館があるし、少し離れているが平城京跡資料館や飛鳥資料館もある。ただっ広い敷地を歩くことになりそうだが、面白そうな気がする。

復元された建物からは奈良時代特有の色彩を感じられそうだ。平安期とは違った独特の色遣いらしい。建築構造は自分にとって馴染みのないもので見ていてもよく分からないが、色遣いならそれなりに楽しめそうな気もする。落ち着いたら見に行ってみたいと思う。ちなみに、当時の平城京は宮が3m高かったが、現在復元されている太極殿はほんの数十センチ程度の傾斜しかないらしい。

参考文献
森郁夫・甲斐弓子『平城京を歩く』淡交社(2010年)
青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫
寺崎保広『若い人に語る奈良時代の歴史』吉川弘文館(2013年)

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