【小話】平安時代 誤解していた平清盛の人柄

歴史小話

平家にあらずんば人にあらず

昔、学校の授業で、平清盛は権勢をほしいままにし私利私欲のために政治を行い、それが多くの反感を買い罰が当たり熱病におかされて死に、平氏が滅亡したと教わった。しかも数人の教師から。ある教師は平家物語を持ち出し、清盛は権力を振るって好き勝手やったから罰が当たったんだ、平家が滅びたのは自業自得なんだと言っていた。

日本史の授業を自分なりに楽しくしようと思ったのか、それともそのようなでたらめを本当のことだと思っていたのか。どちらにしてもいい迷惑だと、今になっては思う。日本史の名著といわれる中公文庫の日本の歴史の源平合戦を扱った巻が発売されたのは、1973年である。小学校の頃にせよ中学校の頃にせよ、授業でそんな話が出たのは少なくとも本が刊行されてから20年近くも経っている頃だ。

『日本の歴史6 武士の登場』では清盛は愚将としても、横柄な人物としても書かれていない。平清盛は、身分の低い者に対しても優しさのある人物だったことが描かれている。召使がその場にそぐわない苦々しいことをしても、主人のために冗談のつもりでやったのならそれを察してあげるべきだろうと、笑ってやったことが伝えらえている、と書いている。間違いをし、物を散らかしたり行儀の悪いことをしても、言うほどのことでもないと声を荒げて叱ることもない(『十訓抄』)と。

冬の寒い時は小侍を自分の布団の端に寝かせ、早朝まだ彼らが寝ていればそっと抜け出して、思うように寝かせておく。召使いと呼ばれぬような輩でも、他人の見ている場所では一人前にもてなすので、彼らは面目を保ち嬉しく思う。このような情を全ての人に心がけた、と書いている。公卿の列に加えられた時、朝廷からさほど反感を得なかったのは、そうした性格があったからだとも書かれている(清盛が朝廷から反目されたのは、娘を入宮させて外戚になろうとした頃からだ)。

大和田泊(現在の兵庫港)を修理した時に、工事がうまく進まず人柱を埋めた方がいいと提案された時、その意見を退けて経の文字を書かせた石を沈めて島の基礎を作ったという話もある。これは本当らしく、最近の本でも人柱を埋めようという話が出た時に、人が死ぬのは可哀想だと言って却下した話には信憑性があるとされている。日照りが続くと僧侶が雨乞いの祈祷をお願いするのが当たり前だった当時、坊主が祈ったぐらいで雨が降るはずがないと笑って断ったという話もある。

日宋貿易では貴族たちから「延喜以来未曾有のこと。天魔のなすところか」(『玉葉』)と批判されたが、『太平御覧』(たいへいぎょらん)を大陸から輸入して、学問の進歩に貢献している。『太平御覧』は宋が建国して間もなくつくられた大百科全書で、千巻に及ぶ膨大なものであり、大陸の歴史だけでなく、ありとあらゆる事物を知るに非常に便利なものだった。完全に揃ったものではなく300巻に過ぎなかったが、当時は外国輸出がかたく禁止されていたもので貴重であり、後に貴族たちの語り草とされるほど画期的なことであった。

権力をほしいままにした横暴な専制者とののしられてきた平清盛であるが、その性格は温厚で敵をつくらず、当時対立関係にあった上皇と天皇の両方にできる限りの奉仕をしたことも知られている。政界で巧みに遊いだ人物ともいえるが、無駄な争いを避け温厚さのある人物でもあった。清盛が行った政策はその人柄以上に、今日では先進性のある優れたものとして以前よりもさらに見直されている。

参考文献
竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』中公文庫
出口治明『0から学ぶ「日本史」講義-中世篇』文藝春秋(2017年)

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