勉強してみると面白い鎌倉時代

歴史小話

画像は平家物語絵巻(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

日本史を学び直していると、鎌倉時代は面白い。新しいことを知れる楽しさと、これまで自分が勘違いしていたことに気づける楽しさがある。子供の頃に読んだ漫画日本の歴史(どこの出版社だったか忘れたが)の内容は酷いもので、ありもしないことが描かれていたのを覚えている。源義経が宙を舞い弁慶をやっつけ、一の谷で急な崖を馬で駆け下りて奇襲し、壇ノ浦で船から船へと軽々と飛び越えていく。同じ源氏の木曾義仲は、猛牛の角に松明をくくりつけて平氏軍に突進させ、奇抜なアイデアで俱利伽羅峠の戦いで勝利をおさめる。

大人になると、さすがにそれらの話が創作であることには気づくが、では源平合戦はどのような戦いだったのか、と聞かれれば簡単なことしか答えられなかった。源氏と平氏が戦って源氏が勝った、平清盛の傲慢な政治が全国の源氏の恨みをかった、西国の飢饉(養和の大飢饉)が平氏を不利にした、源義経を匿ったから奥州藤原氏は滅んだ、など。こうした考えは現在では一部分しか見ていないとして、否定されている。

源平合戦は源氏と平氏が戦ったという単純なものではないし(そもそも源平合戦という名は「治承・寿永の乱」と呼ばれるようになりつつある)、平氏政権は清盛の政策だけが大きな反乱を招いた原因ではない。東国が飢饉と無関係だった訳でもないし、源頼朝には奥州征伐を行う別の政治的思惑があった。源義経のおかげで平氏を倒せた訳ではないし、平氏は寄せ集めの軍隊だったから負けた訳でもない。そして何といっても、源平合戦は全国規模の争乱で、日本全土を荒廃させたといってもいいほどの争乱だったいう認識が今日では定着している。

戦乱の最中に大飢饉が起こり、飢饉の中なんとか命を繋いでいた百姓たちは、兵粮を徴収され、戦場に駆り出された。戦乱が約6年(奥州征伐を含めれば10年)も続いたことを考えれば、全国を荒廃させたことは容易に想像できる。そのため、社会は混乱し厭戦気分は高まり、戦乱中に東大寺の再建が急がれた。民衆の不安を静めるため、また戦争で亡くなった多くの人たちの霊を鎮めるために、社会事業として東大寺の大仏は急ピッチで造られた。この厭戦気分が承久の乱を失敗に終わら、平家物語が鎮魂歌として国民の間に広がったとされている。

「鎌倉新仏教」というものは、こうした時代に生まれた。旧仏教が堕落していたから新仏教が出てきたという考えも、今日では一面的な見方とされている。堕落した僧がいるのはいつの時代でも同じことであり、顕密仏教は院政期に大きく発展している。国家を鎮護するものとして経典が研究され、学問としても発展した。それなのに戦乱が起きて悲惨なことになってしまったから、今までの考え方、やり方では駄目だという意識が強まり、改革が行われた。鎌倉新仏教は改革を起こした急進派を指しているのであって、穏健派も改革派とは違った別の改革を行っている。

日本史を学び直すと、こうした自分にとっては新しい事実を知ることが沢山あって面白いと感じる。近年の研究によって新しいことが分かるようになったものが多いが、実は自分が勘違いしていただけで、以前から既に述べられていたことも少なくない。例えば、40年以上も前に出版されている中公文庫の日本の歴史には、平氏の反乱軍は寺社勢力と地方豪族と源氏の3つの反乱分子がいたことや、養和の大飢饉で平氏だけでなく源氏も兵粮米の調達に苦労したことが書かれている(6巻『武士の登場』)。

また、一の谷の戦いは法皇の院宣を利用した源氏の騙し討ちで、源義経の鵯越(ひよどりごえ)の逆おとしなどなかったことや、平氏の滅亡後あるいは承久の乱後に全国に守護・地頭が置かれて源氏が全国制覇した訳ではないことも、きちんと書かれている(7巻『鎌倉幕府』)。

テレビの影響なのか漫画や本の影響なのか、鎌倉時代について書かれた本を読むと、間違った歴史認識が自分に沢山あることが分かる。これは鎌倉時代が面白く脚色できるからだといえる。同じように戦国時代や幕末の動乱期もいろいろな脚色や創作がありふれていると思われる。日本史に興味を持ちやすい時代に限って、そうした誤った認識を持つ情報が多くなるが、それだけちゃんとした本を読む楽しさも増えていくと思う。

参考文献
竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』中公文庫
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫
川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』講談社学術文庫(2010年)
久野修義『日本史リブレット.27 重源と栄西』山川出版社(2011)

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