【小話】戦後大量に破壊された古墳②

よみがえる百舌鳥古墳群―失われた古墳群の実像に迫る
戦中・戦後から発掘と保存活動に取り組んできた著者が、大山古墳(仁徳陵古墳)だけでない古墳群の内容、戦後の破壊のありさま、古墳設計の実物大実験、陵墓の公開運動など、著者だけが知っている百舌鳥古墳群の実像を紹介する。

戦後の古墳の破壊について何か知れないかと思い、宮川徏『よみがえる百舌鳥古墳群』新泉社(2018)を読んでみた。本のメインは、著者自身が古墳の調査した経験から考えた百舌鳥古墳群についての考察だが、所々に古墳の破壊について書かれている。

古墳は戦後に多くが破壊されたと思っていたが、本を読んでみると戦時中にも、戦後の破壊とまでは言えないまでも、それに近いようなことが行われていたが分かる。大阪の古墳群では油を採るために松の根が掘られ、砲台を設置するために陵墓に大杭が打ち込まれている。

文化財という概念が広まるのは戦後の1950年以降になるのだが、戦時中は状況が状況だけに、古墳のある敷地で樹を採ったり杭が打たるといった、そういったことが当たり前のように行われたようだ。

そして、戦争が終わると多くの古墳が壊されくいく。終戦後は食糧難となり、まず食べていくことが最優先され、畑へと開墾された古墳があった。また、空襲で壊滅した街の復興に古墳の土が使われたらしい。1950年9月にはジェーン台風が発生し、堺に大きな被害をもたらし、台風被害の復旧にも古墳の土が使われた。

現在の都市開発のようにタワーマンションを建てるために古墳を壊すとなれば、いろいろと思うところもあるが、戦後の復興や自然災害の復旧のためとなると、幾分仕方のないことだったと思われるのもまた事実だろう。戦後に破壊された古墳すべてが大企業による都市開発・住宅造成のためだった訳ではなかったことが分かる。

本からは、戦後の物資が不足していた状況で、遺跡の調査をすることがいかに困難だったのかも知ることができる。

記録に欠かせないフィルムは1本600円、現代の金額に換算すると10万円近くしたらしい。戦後2年ほどは正規の市販品が製造されなかったようで、旧日本軍陸軍航空隊の航空撮影フィルムを裁断して巻いた物が闇市で売られていたのだ。ちなみに撮れる枚数を増やすためにフィルムに細工すると、現像した時に漏れた光がシミになってしまうようだ。戦後のそうした写真を見た時には、撮影者の苦労が感じられるから、いいことを知れたと思う。

話を戦後の物資の不足に戻すと、発掘した遺物を収集し梱包する材料や運搬用の容器もまったくなかったようだ。戦後は調査をしようにもろくに道具も揃わない状態だったのだ。

調査の日程も余裕があった訳でなく、1日で発掘・実測図の作成・遺物の回収をしなければならないこともあったと書かれている。これは土取業者に頼み込んで、隙間を縫って古墳を調査したからだ。

著者は本の中で次のようなことを言っている。

「当時は文化財という概念はまだなく、文化財保護法ももちろんなかった。遺跡ではあっても、調査する古墳がどこに帰属するのか、所有者は誰かも調べずに、ましてや発掘の事前了承や手続きも飛ばしていきなり掘り出すのである。敗戦後の混乱期とはいえ、こんなムチャなやり方でよく発掘調査ができたものだと、今になってみると冷や汗の出る思いがする」

宮川徏『よみがえる百舌鳥古墳群』新泉社(2018)p73

古墳の礫石(れきいし・つぶていし。古墳を覆うために使われた石)はコンクリートを打つ基礎に敷くのにもってこいだったようで、荷馬車いっぱいにすると当時の500円(10万円近くだろうか)になったらしい。古墳を調査しに行ったら、朝一で石が採られ平にされてしまっていたが、無理を言って土取りの合間に調査をお願いしている手前、どうすることもできなかった、なんていうエピソードも書かれている。

古墳は土だけでなく石もお金になったのだが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、鉄をはじめとした金属類の需要が高まり、埋葬されていた鉄の甲冑や刀剣も高く売れるようになったようだ。刀剣を売ってくれと頼まれた著者が、子供ながらに「こんな錆びたもの鉄の材料にできやしないよ」と言って持って行かれるのを防いだ話が書かれているが、そういうことがあったというこは、他の場所では実際に甲冑や刀剣が売りに持ち出されることもあったのだろう。

土取業者がふるいにかけた後の残骸として、刀剣がその辺に山のように積まれていたり、近所の子供たちが採掘場で拾った勾玉や刀子で道路に絵を描くといった光景があったというのだから、現在では信じられない状況である。

こうした状況は、何も戦後の混乱期だから起きたのだとは言い切れないだろう。戦後のどさくさや食料難以前に、文化財保護法がなく、遺跡を保存する風潮が無かったのが根本的な原因だったのだろう。法令による縛りがない以上、戦後の貧しさが改善されようが、昔の遺跡が守られることはない。

著者はこのことについて、このように述べている。
※「当時」というのは1955年辺りのことと思われる。

「文化財という概念がまだ十分定着していなかった当時、遺跡(古墳)を保存するということが今のように素直に理解される時代ではなかった。考古学者の中にも、発掘して立派な遺物が出土すれば残せばいいし、大した遺物がなかったり、すでに盗掘されているような古墳は潰されても仕方がないという、いわゆる遺物中心主義の考え方が強かった」

宮川徏『よみがえる百舌鳥古墳群』新泉社(2018)p110

本からそんなことを知ることができたが、そうしたことを知れば知るほど、戦後に遺跡を調査した人の信念の強さを感じる。大した道具もなく、食べ物もなく、限られた時間で調査したというのだから大きな功績であるし、有難い限りである。

戦後の遺跡調査といえば、個人的には静岡県の登呂遺跡がまず思い浮かぶ。戦争を挟んで調査が中断し、空襲で遺物が一部焼失してもいる。戦後物のない中でも、それでも発掘の価値があるからと、全国からいろいろな人が集まり調査をした遺跡なのだが、そうした背景を思い出すと、また観に行きたくなってしまう。わざわざ静岡駅に行って観に行ってこようかと、青春18きっぷのシーズンになると思ってしまうのだ。

話が古墳の破壊から逸れるが、戦後の神社やお寺の改修も同じように大変だったのだろう。戦災によって焼け崩れた寺社の建物は数知れず沢山あったと思われる。それらを時間をかけて募金を集め、改修して今に至っている所も多いのではないだろうか。散策が好きな身としては、神社やお寺の建物を見るとそんなことも気になってしまう。

参考文献:宮川徏『よみがえる百舌鳥古墳群』新泉社(2018)

よみがえる百舌鳥古墳群―失われた古墳群の実像に迫る
戦中・戦後から発掘と保存活動に取り組んできた著者が、大山古墳(仁徳陵古墳)だけでない古墳群の内容、戦後の破壊のありさま、古墳設計の実物大実験、陵墓の公開運動など、著者だけが知っている百舌鳥古墳群の実像を紹介する。

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