東京青梅の御嶽神社について調べていたら、江戸時代に社殿の改修費を集めるために宝くじを開催したことを知った。幕府の統制下に入った寺社ははじめのうちは社殿などの改修費を幕府からもらっていたが、元禄年間(1688~1704年)以降、幕府の財政が悪化してくると改修費が簡単に支給されないようになる。
経年劣化だけでなく台風や地震などの災害で壊れた境内の修復に頭を悩ます寺社は多く、特に御嶽神社のように山上にある寺社は、台風をはじめとした激しい風雨で壊れる事が多く、その費用を集めるのに苦労している。徳川幕府に所縁のある寺社ならすぐに改修費が出たのだろうが、そうでない地方の寺社は尚更その維持に頭を悩ませたようだ。
そんな寺社の改修費を集めるために、江戸時代に宝くじが幕府から許可されることがあった。宝くじは当時、「富籤(とみくじ)」「富突(とみつき)」と呼ばれ、その興業が過熱し過ぎたことから1692年(元禄5年)に徳川綱吉により禁止されているが、寺社が社殿の改修費を集めるために限り特別に許可された。そのため「御免富(ごめんとみ)」と呼ばれることもあったらしい。
江戸時代の富籤について知りたいと思ったが、あいにく詳しく書かれている本が見つからない。Wikipediaに『東海道中膝栗毛』の大坂の編に詳しく書かれているとあるが、大坂の編が載っている現代語本が見つからなかった。
図書館で見つけた『江戸町人の研究第六巻』という本を読むと、御免富は江戸幕府(寺社奉行所)の許可を受けた神社仏閣に限って、幕府からの補助金の代わりに興行が許可されたもので、江戸の三富(谷中・目黒・湯島)の御免富が有名だが、谷中の感応寺のものが一番有名でまた史料が多いとのことだった。
富籤の最盛期は1831年(天保元年)で年間百二十回、これは三日に一度の頻度になるのだが、江戸市中で行われていたようだ。富籤=御免富ということで、幕府に許可された寺社以外の富籤は行われなかったようなのだ。本の主題は富籤の不正や事故についての論文で自分には難解だが、昔も今と変わらず大金が動くといろいろと不正をはたらく人達がいたことが分かった。
確か、御嶽神社は幕府に富籤の開催を願い出てから許可が降りるのに4年かかり、実際に開催するのに5年かかっている。富籤の開催も、専門の興行を行う業者に委託している。上記の江戸の三社以外の寺社仏閣で富籤を開催した事例をもっと知りたいところである。何かの本を読んで知る機会があれば書きたいと思う。
参考文献
西海賢二『武州御嶽山信仰』岩田書院(2008年)
西山松之助編『江戸町人の研究第六巻』吉川弘文館(2006年)の御免富(浦井正明)
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