【小話 古代】持衰②神へ捧げられた神主

持衰(じさい)について、何か本に書かれていないかネットで調べてみたら、宮本常一の『炉辺夜話』に書かれていることが分かり、読んでみた。本にはこのようなことが書かれている。

実は日本の遣唐使節が中国へ行きます時に、必ず船に〈持衰〉というものが乗った、と記されております。このように書いてジサイと読みます。〈持衰〉というものが乗っておった。それは舟のへ先におる。白い着物を着て、…………身体に垢がついておってもおとさない。その人が海の神に祈るというと、どんなにシケている時でも舟はずっと海を越えてゆくことができる。そう信じておったのです。つまり神主なんですね。ところが途中で船が遭難するようなことがある、というと、必ずその人は海の中に投げ入れられるのです。霊力をもつと同時に、霊力を失った時には、神に捧げられてしまう。それが持衰だったのです。

宮本常一『炉辺夜話』より
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菅原道真が筑紫へ流される船の先端には持衰と思われる者が描かれているようで、少なくとも鎌倉時代まではそのような習俗が完全に残されていたとも書かれている。フリー素材が見つからなかったのでここでは紹介できないが、確かに北野天神縁起絵巻 承久本には船の先頭に白い着物を着た持衰らしき者が描かれている。北野天神縁起絵巻は鎌倉時代に作られたもので、承久元年(1219年)あたりのものとされている。

持衰は神主で、神主が神への供養として捧げられた風習があったという訳だが、神主は神の力がある時は皆に尊ばれるが、神の力を失った時には首を切られ犠牲になることもあったのではないかと、本には書かれている。地域によっては神へ捧げられる生霊としての「印」を付けらることがあったらしく、片目の神主が代々存在した場所があったらしい。

印という意味では、持衰が垢まみれで汚らしいのは、そうした理由があったのかもしれない。

また本には、古来では神主のことを「祝(ほうり)」といい、「放」や「屠」と書かれたものがあることから、神主というものは本来「ほうられるもの」だったのではないか、とも書かれている。

片目の神主の話は柳田国男の本にも書かれているようで、民俗学の本を読むと分かるのかもしれない。妖怪の一つ目小僧や一本足もそうした風習から生まれたものなのかもしれない。話が反れるが、「へのへのものじ」は人身供養からできたものだというのを、昔なにかで読んだ記憶もある。

人身供養といえば人柱を思い起こすが、これは江戸時代になっても行われていた。近世までそんなことが行われていたのかと、昔の人の思想には疑問を感じざるを得ないが、それは科学が発達した現代だからいえることなのかもしれない。

村を救うために自ら人柱となった僧侶の話が各地に残されているように、現代とは違った思想がそこにはあったのだろう。科学や技術で解決する術がなく、神に祈るしか現状を改善できない時代があったのも、また事実だろう。馬鹿げた風習だと切り捨てるのは簡単だが、それはもう少し調べてからにしたい。

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