【小話】平安時代 先進性のある優れた政策を行い、近年評価が見直されている武将 平清盛

歴史小話

日本史に登場す歴史上の人物のなかには、近年再評価されている人物が少なからずいる。平清盛もそのうちの一人である。権力をほしいままにし、横暴な専制政治を行った人物としてののしられてきたが、近年では、清盛は鎌倉幕府の基礎をつくったと人物といわれている。また日宋貿易での宋銭の輸入は、貨幣の流通を見越していた先進性のある政策として再評価されている。

平家は源氏への対抗馬として白河・鳥羽・後白河三代の法皇に引き立てられ、急速に台頭したため、源氏のような郎党との強い関係がなく、武士としての組織力という強い基盤がなかった。清盛はその平氏の貧弱な基盤を強くするために、一族・一門を公卿にし、また諸国の受領の役職に任命し、その基盤を増強した。

国政の審議機関である公卿と国政の執行機関である受領の両方の役職を押さえるこのやり方は、かつての摂関家時代に権力を持った藤原氏がやったのと同じ方法であり、律令制から続く従来の国司制度を引き継いでいる。しかし平清盛は、藤原氏がやらなかった新しいことを二つやっている。一つは地方の知行国や受領を一門で占めたこと、もう一つは公領や権門領内に家人を地頭として任命したことである。

清盛は、日本全国66ヵ国のうち30余国が平氏一門の知行国だったことから分かるように、圧倒的な経済力を持っていた。全国の荘園を500持っていたともいわれている。当時多くの荘園を持っていた八条院領が200だから、これは相当の数である。清盛はこの知行国に受領を配置し、平氏政権のにらみを利かした。藤原氏は地方政治に興味を示さなかったが、清盛は中央の権力を地方により浸透させた。『武士の登場』ではこれは、「徳川家康が政権をにぎったとき、親藩・譜代の大名を全国の要地に配置したと同じ」としている。

また、公領や権門の領内に平氏の家人を地頭に任命したことは、脆弱であった平氏の家人との結びつきを強くするものでもあった。清盛個人の恩賞として地頭に任命することで、家人との結びつきを固くし、軍事力を強化したのである。この地頭の設置は鎌倉幕府でも全面的に受け継がれ行政的側面を持ち徴税を行い、地頭は鎌倉幕府で武家政権の重要な柱となった。もちろん権門領主の支配力は強く、平家政権の意図は十分に受け入れられなかったが、地頭を通して権門領内の武士を平氏の支配化に組み入れようとしたことは、藤原氏がしなかったことである。

そして何といっても、清盛の魅力は日宋貿易での宋銭の輸入だろう。宋銭の流通が始まるのは後の時代になるが、当時から清盛には貨幣を流通させることが経済をよくするという考えがあり、先進性があったことが分かる。宋銭が普及すれば国内の商いが円滑になり、宋との貿易もより一層簡素化することができる。清盛の死後、税を米や絹などの物で納めさせ、宋銭の普及をよく思っていなかった貴族だちは以前のやり方に変え宋銭は利用されなくなり、結果としては清盛の試みは失敗することになる。

しかし鎌倉時代になると、貨幣の利便性を実感した多くの人々が私的な商いなどで宋銭を積極的に利用し、朝廷の意図に反して宋銭が流通していく。貨幣が普及すると朝廷が納めさせていた絹などの物価に大きな影響を与えるようになり、貨幣の存在は無視できなくなり、宋銭の利用が公式に認められるようになる。この流れを考えると、清盛の試みは正しいものであり先進性のあったものと言わざるを得ない。

参考文献
竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』中公文庫
出口治明『0から学ぶ「日本史」講義-中世篇』文藝春秋(2017年)

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