【小話】激痛に苦しみながら死に、助かっても肉の壊疽を起こす恐怖の猛毒 ハブ咬症

歴史小話

『毒蛇』(小林照幸著)にはハブの怖さが書かれている。ハブに咬まれるとすぐに激痛が起こり、患部は紫色に変色してみるみる2倍3倍にも腫れあがり、時間が経つほど苦しみは酷くなり、内出血による血圧低下で急性循環器障害が起こり、死亡する。ハブに咬まれたら血清治療を受けないと24時間以内に命を落とすことになるが、咬まれて直ぐに血清を投与しても命の保障は必ずしも100%ではない。

咬まれた人の体験談によると、咬まれた直後に血清を打ち5日の入院で命は助かったが、その間はもの凄い痛みに襲われ、生き地獄だったという。脳髄を突き抜けるような激痛で脂汗を流し、寝ることができない状況が4日間続いたという。

激痛に耐えて命が助かったとしても、重症になれば患部の壊死が始まる。ハブの毒により毛細血管や血管が破壊され、出血を起こし筋肉や血液を腐敗させ、鼻を抑えたくなるような強烈な悪臭を放つ。腐った筋肉が落ち骨が見え、骨自体も黒く腐りかけ、手や足を切断せねばならないこともある。

こんな苦しみを味わうのは、なにもハブを刺激したからではない。普段の生活をしていただけである。サトウキビ畑で草刈りをしていたら咬まれ、道を歩いていたら石垣から飛び出してきたハブに咬まれ、あるいは寝ている最中に咬まれたといったケースばかりである。

ハブは眼の間にある器官で紫外線を出し動物の体温を感知するが、自分の体温よりも温度が高ければ何でも咬むという習性がある。タバコを吸っているとその火に飛びつき、タバコを持っている人の手を咬み、山火事が起これば火に向かって噛み付き続け焼け死んでしまう。火を恐れる生き物が多いのに、ハブには火を恐れないという習性がある。

餌となる野ネズミのいる所に現れ、野ネズミがサトウキビ畑、田んぼや畑、民家に餌を求めて生息すると、ハブもそうした場所に移動する。3月からハブの活動が活発になり、5月6月が最も活動的になるが、3月はサトウキビの収穫、5、6月は草刈りがある。イモなどの再収穫のある10月もハブの被害が増える。

奄美大島は日本に返還されてから本土に砂糖を売りさばくことができるようになり、サトウキビ畑が増えたが、皮肉なことにこれが被害を増やすことになった。また、貧しい家は外から作っているご飯を見られるのを嫌がり、給仕場を暗くするため、ハブにやられることが多い。老若男女問わず寝ている時にハブに咬まれることも多い。

江戸時代の1866年(慶応2年)から行政はハブの被害を問題視し、対策を行う。生け捕りにした場合、買い取ることにし、生きたハブ1匹につき玄米1升、ハブの卵1個には玄米3合の支給を行った。その後も買い取りは続き昭和30年には1匹200円に。ハブは切実な問題だったから、昔から行政は対策を講じていた。

血清ができたのは明治37年(1904年)、奄美大島に使用されたのは38年だが、当時は有効期間が1年だった。しかも冷蔵保管。冷蔵庫はおろか、電気すら通っていない地域が沖縄諸島や奄美諸島にはあり、血清が保管できず、また本数も足りず、効果のない民間療法に頼らざるを得なかった。インフラがまだ整備されていないそれらの地域では、ハブに咬まれても医師のいる場所まで何時間も患者を運ばねばならず、また医者のいな地域もあった。

常温で長期保存の効く血清ができ、また咬まれても壊死を防ぐ効果が高い予防注射が普及するのは昭和40年(1965年)以降となる。長年ハブの毒に苦しむ沖縄や奄美の島民を救うために多大な努力をした医師や研究者の活動は、『毒蛇』に詳しく書かれている。

参考文献
小林照幸『フィラリア』TBSブリタニカ(1994)
小林照幸『毒蛇』TBSブリタニカ(1992年)

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