治承・寿永の乱  

歴史小話

画像は平家物語絵巻(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

「源平合戦」という言葉は学界では「治承・寿永の乱」といわれていて、現在この言葉は一般的に広まりつつある。合戦の内容も自分が学生の頃に教わったものとは大分変ってきていて、いろいろと興味深い事柄がある。源平合戦と聞くと源氏VS平氏という構図を思い浮かべていたが、平氏は源氏だけと戦った訳ではない。興福寺の僧兵や熊野水軍などの寺社勢力と戦っているし、源氏に味方した地方豪族とも戦っている。

平氏に対抗した源氏・寺社勢力・地方豪族の3つの勢力は、お互いに密に連絡を取らなかった。各自がそれぞれの思惑で平氏に対抗し、さらに源氏の中でも頼朝と甲斐源氏と木曾義仲は別々に行動している。そして頼朝に味方した関東の武士は、源氏ではなく平氏の末裔が多い。平将門の乱や平忠常の乱が関東で起きたように、東国は元々平氏の本拠地である。平清盛は伊勢平氏だったが、他の平氏が伊勢平氏に無条件に味方した訳ではなく、頼朝に大きな協力をした北条時政や千葉常胤は桓武平氏、梶原景時や和田義盛は坂東八平氏の出である。

平清盛は藤原摂関家が行った古代の統治を踏襲したため、朝廷に反抗する勢力の攻撃を受けることになった。また国司として全国の百姓の反抗を一気に引き受けることになった。土地を失ったために反乱軍について一発逆転を狙った地方豪族がいれば、変乱軍に与してさらに土地を拡大しようと目論む地方豪族もいた。平氏に土地を取られた者がいれば、平氏政権以前に土地を失っていた者もいて、平氏は自身への恨みの有無にかかわらず、それらの勢力と対峙しなければならなくなった。源平合戦にはそうした構図があり、源氏対平氏という単純な図式ではなく、争乱といえる大規模なものであった。

争乱の規模も、今日では以前よりも大きな規模のものと認識されている。平氏が不人気だったために、百姓を寄せ集めて「にわか」の軍隊で戦わざるを得なかったというのも誤りで、平氏は百姓を工兵隊や兵粮調達部隊として徴発したという見方が強くなっている。源平合戦では以前と戦い方が変化し、騎馬同士、あるいは従者を従えた騎馬同士の決闘のような戦いは行われなくなった。主要な街道に溝やバリケードを築いて戦い、石弓部隊や歩射に優れた弓隊が重要な戦力となった。

足軽が戦場を駆け抜けるようになるのは室町期で後の時代であり、あくまでも主力は騎射に優れた武士であったが、弓隊や非戦闘員も戦いを有利に運ぶために必要不可欠だった。そして、平氏のこうした戦い方に合わせて源氏の方も百姓を徴発して動員を増やし、戦いはより大規模なものとなった。そもそも弓馬の技術は東国の源氏の方が平氏よりも劣っていたといわれている(『源平合戦の虚像を剥ぐ』)。

戦いが広範囲で起こり多数の動員がされた源平合戦は、規模が大きい争乱だったのだが、見過ごせないのが合戦の間に大飢饉が起きていることである。治承4年(1180年)に頼朝が伊豆で挙兵し、甲斐源氏と平氏が富士川で戦うが、翌1181年に養和の大飢饉が起きている。この大飢饉が西国に大打撃を与え、東国に恩恵をもたらしたというのは正しくなく、東国も時間差で不作になり、飢饉は東日本にも波及したと見られている。

治承・寿永の乱は、治承4年(1180年)に始まり元暦2年(1185年)まで6年間続いた。その後の奥州征伐を含めると10年ものあいだ戦乱が続いたことになる。全国に拡大したこの争乱は、飢饉を何とか生き延びた人々を容赦なく殺した。なけなしの兵粮を奪い取り、村々から百姓を徴発し、駆り出された百姓に青田刈りなどの略奪を行わせ、日本全土を荒廃させた。

争乱のあまりの悲惨さに、社会事業として奈良の大仏の再建が急がれ、仏教界から新たな思想や改革が起こり、平家物語がレクイエムとして広がり国民文学になったといわれている。後に承久の乱が起きた時に、西国で思うように兵が集まらず、東国で御家人が集結して士気が高かったのは、治承・寿永の乱があまりにも悲惨なものであり、厭戦気分が高かったからだともいわれている。

参考文献
竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』中公文庫
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫
川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』講談社学術文庫(2010年)
久野修義『日本史リブレット.27 重源と栄西』山川出版社(2011)

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