【鎌倉時代】社会事業として行われた東大寺復興

奈良県

奈良時代に多大なお金と人命をかけて造られた東大寺大仏殿は、1180年(治承四年)に戦乱により焼失した。平氏の南都征伐の命を受けた平重衡の軍が興福寺側の僧兵や寺領荘園・大和国内から集めた兵と戦った際に、平氏軍が境内に火を放ち大仏殿や興福寺の堂舎・僧房がことごとく焼失した。東大寺は日本国総国分寺であり皇族の諸寺の氏寺でもあり、興福寺は藤原氏の氏寺であったため、これによって平氏方についていた寺院勢力や貴族たちも完全に平家を敵視したといわれている(『武士の登場』)。

一夜にして灰燼と帰した大仏殿は、焼失してからわずか5年で再建された。これには宋から導入された新技術が大きく寄与したことが知られているが、各地で行われた勧進が経済面では多大に貢献している。再建を始める時期も早く、1181年にはに着手されており、平氏の滅亡を待たずして再建が始められている。養和の大飢饉、平家の都落ち、木曾義仲の入京、義仲の没落、源義経の入京、瀬戸内海での源平合戦とめまぐるしい政治変動があった戦時中に再建が急がれている。このことから東大寺大仏殿の復興は当時の朝廷・寺社にとっては単なる奈良時代の復興とはいえない、巨大プロジェクトであったことが分かる。

源平の争乱は以仁王の挙兵から壇ノ浦の戦いまで約6年続いた。奥州征伐を含めると10年ものあいだ日本のどこかで戦乱があったことになる。源平の争乱以前には疫病や天災が続き、既に社会は不安定となっていた。争乱が発生し全国化することで国土は荒廃し厭戦気分が日に日に高まっていった。大仏殿の再建には、人々が平和を願い安穏に生き延びようとする切実な思いがあり、また厖大な戦死者が怨霊となって社会を乱すことを恐れる心理があった。大仏殿を再建することは生きている者を救済し、死者を浄化しようとする宗教的事業であり、また社会を再生させようとする国家事業でもあった。

壇ノ浦で平氏が滅んだ5ヵ月後に大仏開眼供養が行われた。その時の人々の熱狂ぶりは『玉葉』や『醍醐雑事記』、『発心集』に書き残されており、参加した多くの雑人が腰刀を法会の舞台に投げ込み、感激のあまりその場で剃髪し出家を願う者が多かったという。平和を願う気持ちから刀を捨てる行為が取られたのだが、手指を切って焼く者、起請文を書いて発心する者なども多数いたと伝えられている。

そうして再建された東大寺大仏殿は戦国期に焼失している。1567年(永禄10年)に起きた松永久秀軍と三好三人衆との戦闘で焼かれてしまったが、南大門だけは鎌倉期に造られたものが現在も残っている。東大寺に訪れる機会があれば、宋式の建築様式だけでなく、再建された背景を思いながら鑑賞してみるのもいいのかもしれない。

参考文献
久野修義『日本史リブレット.27 重源と栄西』山川出版社(2011)
竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』中公文庫
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫

2015年奈良東大寺にて

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