【小話】アンコールワットの日本人の落書き

歴史小話

以前YouTubeで、江戸時代にアンコールワットに行って落書きをして来た日本人がいたと、ある人が笑いながら話していたのを観たことがある。江戸時代は庶民が旅をするようになった時代だが、それは中期以降のことだ。江戸時代初期には鎖国が始まり海外への渡航が禁止されるから、そんなことをはあり得ないだろう、もし本当だとしても倭寇のような海賊の話だろうと話半分に聞いていた。

しかし、鎖国の本を読んでいたらその話が本当であることを知って、びっくりした。

時期は鎖国令が出される前の、日本が朱印船でアジア諸国を渡航していた頃になる。寛永9年(1632年)の正月に肥前の武士、森本右近太夫という者がアンコールワットに参詣した際に、寺院の石柱に落書きしその跡が残されているのだ。

慶長6年(1601年)以降、フィリピンやカンボジアとの朱印船貿易が始まると、日本の船はアジアの各地に赴き貿易を行い、次第に日本人町ができるようになる。

当時のカンボジアの首都ウドンと、プノンペンの近くのメコン川を上り支流のトンレ・サプ川を更に上っていくとあるピネアルーという町にも日本人町ができ、そこからアンコールワットに参詣に行く人が結構いたらしい。

当時は、アンコールワットを釈迦の修行した祇園精舎の跡と間違えて日本人が参詣したのだが、寺院内にはその頃に参詣した日本人男女の落書きがいくつか残されている。

その柱に書かれた落書きの一つに、石柱地上3mの高さに書かれたもので、森本右近太夫が書いたものがかすかに残されているらしく、そこには、

寛永9年(1632年)正月に肥州の侍森本右近太夫が父森本儀太夫(ぎだゆう)の菩提を弔い、母の後世を願って仏像四体を奉納する

と書かれている。

右近太夫の父森本儀太夫という侍は、加藤清正の部将で庄林隼人・飯田角兵衛らとともに五千石の禄をもらい、加藤家三傑と呼ばれた一騎当千の勇将である。朝鮮の役では後藤又兵衛と争いながらも敵城に一番乗りをし、秀吉から感状をもらうほどの活躍をしたほどの人物だ。

落書きをした森本右近太夫という人物は、一房といい、儀太夫の次男にあたる。加藤清正の死後、父儀太夫が後を追うように死に、家中が落ち着かない加藤家に嫌気がさして肥前の松浦氏に仕えたといわれている。松浦氏の領内には平戸があり国際的な貿易港だっため、朱印船でカンボジアに行く機会があったと思われる。

寺院への落書きは困ったものだが、遥々日本から父の菩提を弔いに来たことを書き残さずにはいられなかったのだろう。そんな侍がいたことを鎖国の本を読んで知った。

参考文献:岩生成一『日本の歴史14 鎖国』中公文庫(2019年)

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