【小話】分かりずらい古代の荘園を理解するうえで押さえておきたいこと

画像は一遍上人絵詞(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

日本史を学ぶ学生を悩ませるもののトップは中世の荘園制と近世の貨幣制度らしい。教える側の教師や塾の先生も、同じように思う人が少なくないらしい。自分も例に漏れず荘園制についての理解は乏しいが、自分の場合は中世どころか古代からもう既に分からない。

教科書的な説明は分かることは分かるし、これが受験に出るぞと言われればそういうものとして覚えることに抵抗はないが、それが実際に起きたことかといわれれば首をかしげてしまう。荘園に関する説明はどれも一面的な説明にしか思えず、それが全国で起きていたものとは到底思えない。

かといって、史料を読めない自分が荘園とはこういうものだと結論づけることなど到底できる訳もなく、かといって都合が悪いから考えないようにしようとすれば、中世以降の土地の仕組みや税収について理解を深めることができなくなってしまう。

そんな訳で、分からないことは分からないものとして置いといて、いくつかの事例を押さえてそれを土地や年貢について考える際の判断材料にしてはどうかと思うようになった。

本を読んでいると、荘園について実際こんなことがあったのか、という意外なことを知ることがある。それらがすべて正しいのかは分からないが、今回は個人的に意外だったものや深く考えるきっかけをくれた説明などを含めていくつか書いてみたいと思う。

画像詞(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

まず知らなかったのが、国司はそれほど強くなかったということ。農民を収奪して私腹を肥やした悪の権現というイメージがあったが、国司が力をつけてくるのは摂関家が力をもってからとなる(『武士の起源を解きあかす』)。それまでは院宮王臣家が圧倒的に強く、国司は朝廷から催促される年貢の徴収を思うようにできなかった。

国司が荘園を削るということは、同時に中央の摂関家の経済基盤を削ることでもある。天皇よりも摂関家の力が強い時は、荘園整理令をはじめとする年貢徴収の増加を目指す政策や政令が出されてても、それは建前に過ぎず効力が現れることはない。

実際、1000年(長保2年)に供御所(天皇の御膳料所)以外の院宮諸家の荘園を禁止せよという宣旨が出た時、藤原道長は国司が自分の荘園を整理しようとしたのを止めさせ、「たとえ道理にかなわなくても特別扱いせよ」と例外を認めさせている(『武士の登場』)。

ということは、摂関家の力が弱まると荘園整理令が効力を持つことになる。後三条天皇の延久の荘園整理令では、記録所を設置して藤原氏と関係の薄い源氏や学者を任命しこれまでのやり方を改め、大きな成果を収めている(一方的に国司のいうことを聞いて荘園の没収を断行したのではなく、開発領主から書類を提示させて正当性があれば認めている)。

天皇よりも上皇が絶大な権力を握った院政では、院の寵幸を得て近臣となった受領が荘園を強気に削り取った。院側の受領にとっては王臣家に気兼ねする必要がないから、繰り返し出される荘園整理令を大義名分に、どんどん王臣家の荘園を削り取った。

しかしすべての受領が強気だった訳ではなく、受領は昇進のために熱心に荘園を削って中央貴族への貢物をせっせと貯めこむが、温国への異動や重任が敵わないと分かれば、王臣家と敵対することは必ずしも得策ではないから、手のひらを反して昇進を認めて妥協するようになる。これは特に受領の任期が終わりに近づくと増えた。

また地方の有力豪族は、必ずしも非力で国司や王臣家の圧迫を受けその傘下に甘んじていた訳ではない。彼らはより年貢が少なく自身の基盤を拡大できる状況を選ぶ際の選択肢として、国司・受領の下に入るか王臣家に荘園を寄進するか選んでいた(『鎌倉幕府』)。

荘園を寄進すればこれで安泰とはいかず、寄進した相手の貴族が中央の政界で有力者であり続けないと、土地を失いかねない。一度寄進した荘園も国司との話し合いによっては取りやめて、国司の下で郡司としている方が有利だとなれば、そうすることもある。

そして土地を国司か王臣家のどちらか一方に委ねるのではなく、一方は国司に、もう一方は王臣家にといったようにリスクヘッジをしながら、土地の一部をその傘下に納めるのを常とした。

一般的な荘園の説明だと国司の方が強かったイメージがあるし、『武士の起源を解きあかす』を読むと王臣家の方が強くてえげつなかったイメージがある。どちらが強いのかはその時々によって違うのだろう。天皇や上皇、摂関家の力関係で変化し、仁明朝以降に朝廷の威光が失墜してからは、朝廷の威厳が届かない地方では武士の元となる集団が力をつけてくる。

画像は平治物語絵巻(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

そしてさらに深く考えるのならば、『武士の登場』に書かれているような荘園の二元支配についても押さえておく必要があるのではないだろうか。戦国時代に大名領国が成立するまでは土地の支配と人の支配は別であり、土地から取る税とその土地に住む人を使役する権利(夫役)は別の権力者によって支配されていた。

摂津国の長渚荘では土地は東大寺が所有し、そこに住む者への課役権は賀茂神社が持っていた。東大寺は地子は取れるが、その住人に作物を作らせて貢物を収めさせたり、寺社に属する座に組み入れて商売させたりすることはできなかった。

書いたことがすべて正しいのかは分からないが、こういう事例を本を読んで知ると、荘園とはこういうものだと説明できなくてもいいのだと素直に思える。荘園に限らず、歴史の史実は様々な人間が関わり複雑に織り交ざり合い、いろいろな要因が重なり合って起きている。

本を読んだからといってその全容が分かる訳でもなく、分からなくていいのであって、そういう複雑なものであるということが分かればいいのではないかと、そんなことも思ってしまう。

参考文献
竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』(中公文庫)
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中公文庫)
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす―混血する古代、創発される中世』ちくま新書(2018年)の64 受領は院政までは雑魚 地方の収奪者は王臣家

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