【小話】原因不明の火災 正倉院を燃やす神火

8世紀後半から9世紀にかけて、諸国の正倉で原因不明の火災がしばしば起こった。正倉という言葉は今では奈良の正倉院を指すが、当時は各地に稲などの穀物を蓄える正倉という蔵があった。この正倉の火災は原因不明のため、神が起こした火災として「神火(じんか)」とも呼ばれた。

ある国司の報告には、「正倉が焼失し周辺の百姓10人が病気となり2人が死亡した。占なってみると神の祟りである。神が言うには、私は常に朝廷の幣帛を受けることになっているのに、近年は奉幣を怠っている。そこで近くの雷神を集めて火災を起こした、というのだ。調べてみると、確かにこの神社は奉幣を受けるべきなのに近年は奉幣が行われていなかった」とある。神火に対して朝廷は国司・郡司が神を恭しく祀っていないからだと咎め、また堤防の修築などを怠っている国司らを責め不適任者は解任すべしと命じている。

しかしその後も火災は続く。朝廷は神の祟り意外にも原因があるとし、対策に乗り出すこととなる。火災の原因は主に二つあり、一つは国司・郡司が正倉の稲穀を使い込みそれを隠蔽するために空になっている倉を焼いて稲穀が焼けてしまったと報告するもの、もう一つは、正倉が火災になると郡司らが責任を負って解任されるから、次の郡司を狙う人が現郡司の失脚を狙って放火するものである。

もちろん落雷などによる自然火災や、郡司とは無関係な盗賊などによる放火もあったらしいが、そうとはいえないくらい火災が多かったようだ。朝廷は宝亀4年(773年)に官物焼失の場合には郡司は全て解任し、また現職の郡司の失脚を狙って放火した者は次の郡司の選考から外すと命じている。稲穀の使い込みは郡司全員が共謀している訳ではないから郡司同士で相互に監視することを狙ったと思われるが(郡司には大領・少領・主政・主帳がいた)、現職郡司が全員解任となると次の郡司を狙う人には好都合で郡司の失脚を図った放火は増えた。6年後には朝廷はそうした者は主犯・従犯ともに全て打ち殺せと命じるが、火災はなくならない。犯人が見つからなければいくら死刑に処すといっても対処できないからだ。

そこで今度は、延暦5年(786年)に火災が起きたらその時の国司・郡司が損失を補填せよとし、郡司の失脚を意図した放火が意味の無いこと、そして使い込んだ稲穀は隠蔽しても補填させることを命じた。それでも火災は続いたことから、稲穀(正税)の使い込みが多く、それを隠蔽したと考えられる。一人の郡司が稲穀を使い込んでもそれを補填するのが国司・郡司・税長(途中から税長も責任を負わされることになった)の全体だから、当事者としては使い込みが摘発される前に倉を焼いてしまえばよい。

こうなると割に合わなくなるのが、身に覚えのない郡司だ。国司はしばしば交替があり現地を離れるから責任逃れする余地があるが、郡司はそうもいかない。自分がやっていなくても稲穀の補填を強要される訳で、郡司という地位が魅力のあるものではなくなる。ただでさえ激務なのに、その割にはうまみがなく割に合わないとして、郡司になることを嫌がるケースが増えている。

朝廷は延暦18年(799年)に郡司の位階にである外位を内位することで退任者を減らし郡務に支障がきたさないようにするが、うまくいかなかった。今度は郡司がその制度を利用して親族内で郡司の職をたらい回しにしたからだ。位階だけもらっておいて、その後は病気を理由に退任し、郡司の職は地方豪族の身内内で交代で押し付け合うのだ。郡司がそうした理由は他にもあるが、その辺のことは「律令制の下で有名無実化していく郡司」に書いている。郡司が割に合わないと思うようになると、郡司にならずに中央の貴族と個人的なよしを持ち、貴族に近づいていく者も増える。

こうした状況に対して政府は国司に権力を集中するようにし、郡司は次第に支配力を低下させ、ついには有名無実化していくこととなる。

参考文献
中村順昭『地方官人たちの古代史』吉川弘文館(2014年)
寺崎保広『若い人に語る奈良時代の歴史』吉川弘文館(2013年)

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