【小話】黒ボク土(くろぼくど)

本のレビュー

『「馬」が動かした日本史』を読んで、黒ボク土(くろぼくど)という土を知った。関東や東北などの野菜畑や果樹畑でよく見かける黒っぽい土で、「黒ボコ」、「黒ボッコ」など地方によって呼び方は様々だが、農業では単に「黒土」と言われているらしい。

黒ボク土の面積は国土の約30%、畑の約47%を覆っている土で、国外ではほとんど見られず謎の多い土壌とされている。一般的には火山の近くに見られ、火山灰などの火山由来の地質とされているが、火山のない地域にも見られる。

地層を見ると、旧石器時代の赤土の上に積もっていることから、縄文時代以降のものであり、また人口の多い土地に見られることから、縄文人が森林を伐採し焼き払い、毎年の野焼きを繰り返し、草原を維持したことでできた土だとされている。

焼畑と関係あるのかと思ったが、そうではないらしい。野焼き・山焼きと焼畑とは違うらしく、野焼き・山焼きはゼンマイやワラビを採るためのものだが、焼畑は木の灰を肥料として作物を作ることだから両者は違うのだそうだ(『日本の土-地質学が明かす黒土と縄文文化-』)。

黒ボク土のある地域では弥生文化が広がらなかった。火山の周りは土壌が薄く、樹木が根を張り十分な水分栄養分を得ることが難しいのだ。火砕流を基盤をして形成されている土地では透水性が高く、雨水は地下深くに移動しまい樹木が十分に水を得られない。灌漑の技術がない昔は尚のこと、作物を作ることは難しく野焼きが行われるようになったらしい。

しかし五世紀になると、稲作には適さなかった黒ボク土の土地では馬の飼育が行われるようになった。崖や川という天然の柵がある馬が逃げられない場所に限られるが、黒ボク土の土地には馬の食料となる草木が豊富にあるため、馬の飼育には適していたのだ。

四世紀末に日本に伝わったとされる馬は、五世紀には河内で飼育が始まり五世紀末には岩手県南部でも馬が飼われるようになっている。そして各地で馬牧が形成され、時代を下ると馬産地・放牧地で馬の扱いに長けた武士が増え、歴史に現れ活躍していくこととなる。

平泉の奥州藤原氏、甲斐の武田信玄、下総の平将門、江戸の家康、鎌倉の頼朝、伊勢の清盛一族、薩摩の島津。これらの武士の共通点は牧が近くにあることであり、馬術が優れていることで、例外はあるが黒ボク土帯を軍事拠点としている。

古代の朝廷が東国の蝦夷に手を焼き統一できなかったのは軍馬の量が多く馬術に長けた兵士が多かったからだと言われているし、九州南部の隼人も同様の理由で強かったと言われている。

一つの視点だけで歴史を見るのは短絡的だが、様々な要因の内の一つとして見てみるのは面白い。土というマイナーなもので日本史を見てみるのも面白いのかもしれない。

参考文献
蓮池明弘『「馬」が動かした日本史』文春新書(2020年)kindle版

Amazon.co.jp

山野井徹『日本の土-地質学が明かす黒土と縄文文化-』築地書館(2015年)

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