概略
扱う時代は、1180年(治承4年)に源頼家が伊豆で挙兵してから、1266年(文永3年)に鎌倉殿の宗尊親王が廃せられ京に送り返されるまでの86年となる。頼朝が鎌倉幕府を開いて中世が幕を開け、北条家の執権による合議政治を経て、北条氏の嫡流による得宗専制政治へと移行していく流れを書いている。
鎌倉時代は3つの段階があり、第一段階は鎌倉殿である頼朝の専制体制、第二段階は両執権と11人の御家人と文務官僚からなる評定衆による合議政治、第三段階は北条氏嫡流による得宗専制政治である。頼朝の死後、北条氏が有力御家人をその都度排除しながら、承久の乱に勝ち幕府の基盤を強化し、武家法である御成敗式目を制定し、北条氏による専制体制を確立していく。
東国の武士の律令制への反抗を吸収し、それをまとめて平家を倒し武家政権を打ち立てた鎌倉幕府によって封建制が始まるが、幕府は日本全国を支配した訳ではなく、畿内と西国は朝廷の支配下であった。承久の乱の勝利により幕府の勢力は畿内・西国に伸びるが、全国隈なく鎌倉幕府の威光が届いた訳ではない。
読んでよかった点
要点を押さえた簡潔な文章で読みやすく、分かりやすい。伊豆で挙兵するもすぐに大敗し安房に逃げこんだ頼朝が、平家を滅亡できたのはなぜか。なぜ多くの武士が頼朝に味方し、頼朝よりも先に平家追討の手柄を立てた甲斐源氏や木曾義仲を出し抜けたのか。その理由がよく分かる。
幕府設立後の政治史も分かりやすく、鎌倉時代を3つの段階に分けてそれぞれの時代の政策を簡潔にまとめている。それに合わせて文化史も3つの時期に分けているから、広く鎌倉時代のことを理解できる。幕府成立前の解説も丁寧で、東国の武士がどのような生活をしていたのか、本業である農場経営や戦はどのようにしていたのかを詳しく知ることができる。
本の構成は政治史一辺倒でなく、宗教や文化のことがしっかり書かれているし、鎌倉の発展や物流の向上による商業の発展も分かりやすく書かれている。浄土宗・浄土真宗・禅宗の新仏教の普及、旧仏教からの弾圧、寺院の建築・造仏技術の発展、貴族による和歌の発展、平家物語の普及など、当時の時代背景を含めて読み取ることができる。
今日では誤った歴史認識とされていることが、出版当時から既に否定されていたことは意外に思う反面、勉強になる。頼朝には初めから源氏政権を樹立する気持ちはなかった、義経の一の谷の戦いでの鵯越(ひよどりごえ)の逆おとしは虚像である、義経は壇ノ浦の戦いや後白河法皇との外交で討伐されて当然のことをした、幕府の設立と同時に全国に守護・地頭が置かれた、ことなどは誤った認識だと当時からいわれていたことが分かる。
気になったことのメモ
『鎌倉幕府』を読んで興味を持ったことをいくつか書いておきたいと思う。さらに詳しいことは本巻に詳細に書かれているので一読をおすすめする。
東国武士の性格と土地の経営
頼朝の下に集まった東国武士を簡潔に表すと、国府の在庁官人と庄園の管理人の二つの顔を持つ武士となる。公的機関に属する、軍事警察の司令官であり、農地を開拓する庄園管理人でもある。庄園経営こそが武士を成立・成長させた原因であり、庄園の拡大が東国武士の最優先事項だった。
武士は自分の土地を守るため有力者に庄園を預けて土地の安全を図った。しかし、上皇・上流貴族・社寺に土地を寄進したからといって安泰になる訳ではない。彼らが政界で失脚すれば庄園の所有者として無力となり、土地を他の有力者に取り上げらる危険がある。一口に庄園の承認といっても、いくつかの段階があり、寄進先の力のいかんで承認が確実なものにも形ばかりのものにもなる。
新しく赴任してきた国司の方が政界で力があり強く、寄進先の貴族の顔が効かないこともあるし、また寄進先の貴族・社寺が増大すれば、その権力をかざして年貢を増徴してくることもある。そうした事情から、庄園領主はその時々の情勢の変化に深く注意し土地を経営していた。一旦貴族や社寺に寄進した庄園を国衙領に戻して郡司・郷司に戻ることも珍しくななかったようで、そうしたことが認められていたのは興味深い。
そしてよりよい保護者を求めるのと同時に、リスクヘッジもしていた。例えば、土地の一部を国衙に残し、別の一部を貴族に寄進し、また別の一部を社寺に寄進するといったことが普通に行われていた。危険の分散を図り、同時に多くの保護者と関係を結んでいたのだ。
土地が行ったり来たりしている訳だから、よくいわれているような日本全土が庄園になり国衙領が無くなっただなんてことは起こるはずもなく、庄園と国衙領は大体半々の割合だった。ついでに、律令制の頃から家は売買でき、武士の場合も宅地は完全なる私有権が認められていた。
頼朝の有能さ
頼朝は初めから地位と名声があり強かった訳ではない。弱小だったし、血筋の良さは他の源氏の棟梁にもあった。それが最終的には甲斐源氏や木曾義仲を出し抜き、源氏の棟梁となり鎌倉幕府を樹立できたのは、東国の基盤をしっかりと固めたからである。その時間を稼いだのは、西国の飢饉であり、甲斐源氏や木曾義仲であった。
源平合戦は、源氏と平氏の2大勢力の戦争という単純な図式ではなく、源氏が反律令制・反朝廷の勢力を吸収して全国に広がった戦乱である。平氏に土地を取り上げられた者や以前から中央貴族に不満を持っていた勢力が、平氏政権を倒すことで現状よりも多くの所領を得ることを期待して戦った戦乱であった。
頼朝は東国武士の真意を理解し、それを実現する制度づくりを優先した。所領を安堵し、平氏の土地を切り取って論功行賞を行い新恩として給与した。一口に土地の分配といっても時間がかかるもので、公正な裁決を行うには公的な記録が必要となる。そのためには、まず国府を押さえて土地台帳を探し、なければ記憶のいい古老を探し出して作らせる。そして、土地台帳ができてはじめて年貢の徴収や、田畑を耕作させるための食料や種モミの貸し付けができるようになる。
富士川の戦いを期に一気に上京したい気持ちと抑えて、こうした基盤をしっかり固めたところに頼朝の勝因がある。ライバルから出遅れ、しかも京都から遠いという一見不利な状況が、同時に平氏から一番離れてていて基盤固めに有利であることを理解していたところに頼朝の有能さがある。事実、西国では頼朝は意外に不人気で関東の武士たちが動揺しているという噂も流れており、上京していれば義仲と同じ様になった可能性が高い。
頼朝と対照的だった木曾義仲の軍は、明確な主従関係などなく同盟軍の寄せ集めだったため統率が取れなかった。ただでさえ飢饉による食糧難であった京都は、義仲軍による暴行・青田刈りでさらに疲弊し、反感だけを得る結果となる。後白河法皇の策略により内部分裂し、平家追討してこいと都を追われ、慣れない西国の地で平家と戦い消耗し、都合よく利用されて終わった。
頼朝は後白河法皇との外交でも義仲の二の舞を踏まず、むしろそれを利用して東国政権をより確固たるものにした。鎌倉では以仁王の死を隠して、東国全土の支配権は以仁王から授かっていると宣伝しているし、東国武士にとっての自分の利用価値を理解してそれを最大限に利用した。ここに頼朝の政治力の高さがある。
三段階で説明される鎌倉幕府
本巻では鎌倉幕府を三つの段階で捉えている。第一段階は、鎌倉殿頼朝による専制体制で、この頃の政府は頼朝の補助機関に過ぎず流動的であった。大江広元・三善康信・中原親能などの京都の下級貴族を側近に据え、知行国の国司に任命されたのは源氏一族の出身者に限られ、頼朝の近親者と他の御家人との間には明らかな差別待遇があった。初期の鎌倉幕府は、側近・一族・近親者にかこまれた頼朝の独裁政治だった。
文化面では、運慶が活躍し、法然が専修念仏を広め、重源や栄西が新しい文化を求めて入宋し、似絵や絵巻物が成立した。院政期文化が完成したともいえる。
第二段階は、両執権と11人の御家人と文務官僚からなる評定衆による合議政治。頼朝と並ぶ鎌倉幕府最大の政治家と評される北条義時の死後、その跡を継いだ泰時は大江広元・北条政子の死により厳しい状況に追い込まれ、難局に対処する術として集団指導制・合議政治を打ち出す。両執権と呼ばれる複数執権制が始まり、これに有力御家人と幕府事務官僚からなる11人の評定衆を加え、政策や人事の決定、訴訟の裁決、法令の立法などを行うこととした。
武士による法典である御成敗式目ができるのものこの時期で、鎌倉殿である将軍は形式的なものになる。文化面では、没落する貴族の中で歌道を極めて存在意義を見いだす風潮が表れ、慈円や鴨長明が書を残し、比叡山や南都が新仏教を幾度となく弾圧する。旧仏教による新仏教への弾圧は、比叡山の強権が崩れその地位が揺らぎ始めたことを意味し、同時に逆に中世的な思想や宗教が成長していくのを助長した。
第三段階は北条氏嫡流による得宗専制政治である。時頼は病気を理由に30歳で出家し執権の地位を長時に譲るが、それは表向きで公然と隠居政治を行う。執権在職中から既に、時頼は北条一族や側近を自宅に呼んで秘密会議を開き重要政務を決定していて、これにより合議政治は空洞化し骨抜きされた。
両執権・評定会議以下の幕府の公式制度はまったく有名無実のものとなり、得宗とよばれる北条氏の嫡流がかつての鎌倉殿の独裁にも似た専制支配を行うようになる。文化面では、日蓮の布教が始まり親鸞が没し、後に中世の文化が花開くまでの試行錯誤の期間となる。この時期を経て、連歌や能楽が開花することになる。
その他
以上、東国武士と頼朝の政治と鎌倉幕府について書いたが、あくまでさわりに過ぎないので、さらに詳しく知りたい人は一読をおすすめする。『鎌倉幕府』では以下のことも書かれている。有能な頼朝の唯一の失敗とされる娘の入内計画、御家人同士の争い、承久の乱で畿内にいた幕府の御家人が京側についた理由、中世の裁判の方法、合戦の方法、鎌倉の発展と京都の経済、旧仏教と新仏教の対立、御成敗式目の画期性など。
特に武士の本業である戦いの説明では、源平以前の合戦が時代とともに変化していく様子や、武士の価値観が読み取れて面白い。後に「一番槍」と呼ばれるようになる先駆けが褒められた理由や、同士討ちをしてしまった時に受ける罰なども、当時の武士の思想が分かり面白い。
今一つだった点
簡潔な文章だが、以下のことには触れられていないので自分で読み解く必要がある(知識不足と読解力不足で読み取れなかったと思うが)。
鎌倉幕府の全国支配が及ぶのはいつになのか。元寇以降なのかそれとも及ばなかったのか。幕府に任命された畿内・西国の地頭は、鎌倉幕府と荘園領主(朝廷・公領)の二元支配を受けていたと今日では説明されているが、そうだったのか。鎌倉幕府が平家政権の二の舞にならなかった理由はなにか。承久の乱に圧勝したのは東国の御家人が幕府の方針や政子の演説に共感したからなのか。
こうした近年の説を気にして読むと、少し物足りなさを感じるのかもしれない。頼朝や実朝が朝廷に近づいたのは権威が足りなかったから、頼朝が地盤を固めて幕府をつくれたのは平清盛のグランドデザインを踏襲したから、承久の乱で上皇側に兵が集まらなかったのは厭戦気分によるもの、など近年の説が気になるところではある。
また補足として、源平合戦の際に西国で飢饉があったが東国では豊作だったというのは、現在では訂正すべきで、東国も西国が大飢饉だった治承4年の翌年の治承5年には凶作に見舞われたのが正しいとされている(川合康『源平合戦の虚像を剝ぐ』講談社学術文庫p128)。
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