【小話】御岳講

歴史小話

講というものを知ったのは、山梨県の南西部にある早川町の赤沢宿がきっかけだった。どこか一人で泊まれる古民家はないものかと探していた時にネットで知り、かつて講を組んで七面山に登った参詣者がいたことを知った。

一口に講と言っても、仏教行事としての講に地域住民が集まる講、寺社に参詣しに行く参拝講に相互扶助としての講と様々だが、ここでは参拝講について触れることにする。

以前、赤沢宿の大阪屋というゲストハウスに泊まり、講というものがどんなものなのかその特殊な造りや天井に貼られた講中札を見て、何となく知ることができた。かつてはこの地に多くの参詣者が歩き旅をしたのかと感慨深い思いが少しはあったが、どこか冷めた感じが自分の中にはあった。

娯楽の少なかった時代は神社に参詣する名目で村から離れて一時の気晴らしをしたのだろう。代々熱心に寺社に参詣する土地があったのだろう。中には代々のしきたりで仕方なく、村の掟に従って参詣した人もいたのだろう。現在とは違って宗教という非科学的なものを拠りどころとせざるを得なかった時代でもあったのだろう。

と、そんなことを思っていた。伊勢参りのような何日もかけて移動し、一生に一度は体験できるかできないかの壮大なものならまだしも、一日あれば登れる山に登って参詣し、山を下りて講中宿に一泊するとなると、尚更のことである。

自分にとっては御嶽神社に登拝する「御岳講」も同じようなものだった。現在の東京や埼玉・神奈川近隣の住民が標高1000mに満たない山に登り、御師の家に泊まり神社に参拝して帰る。赤沢宿の身延講よりもスケールが更に小さく感じられ、それほど御岳講というものに関心を持てなかった。

それが一変したのが、メインサイトに上げた御岳山で一泊した記事だった。記事を書くにあたり御岳山や御嶽神社のことを調べたていたら、講とはそういう軽いものではないことが分かった。

これは御嶽神社のホームページに書かれているのだが、各地の檀家が御岳講を組んで参詣に訪れることによって、御嶽神社には各地から様々な情報が集まった。檀那だけでなく物見遊山や娯楽で訪れる人もおり、それだけ情報が集まったのだ。政治や経済や新しい法令といったものから作物の出来不出来、飢饉や疫病、災害といった生死にかかわるものまで、多くの情報交換の場を寺社や講中宿が担ったのだ。

なかでも驚いたのが、干ばつや台風、害虫に強い稲などが御嶽神社に持ち寄られたことだ。なるほど寺社には奉納という形でそうしたものが集まる場所でもある。他にも、あいにく薬しか思い浮かばないが、そうした村人にとって必要なモノや情報が講を通して持ち寄られ、場合によってはそれが各村に持ち帰られたのだろう。

そうしたことを知ると、毎年定期的に参詣して金品を収める参拝講という行為は、単なる信仰心による宗教的なものに限らず、生きていくために必要な重要な行事だったことが分かる。関東には御岳講の他に、榛名講・三峰講・大山講があったが、そんなことを知るとそれらについても旅をしたり本を読んだりして、改めて参拝講というものを考えてみたくなってしまう。

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