【旅の拾いもの】御岳山③ 御岳講(檀那)について

東京都

御岳山御師による精力的な布教により、江戸時代には多くの庶民が御嶽山に登拝した。彼らは講を組み、御岳講の一員(講中)として参詣をした。今回は村人にフォーカスを当て、御岳講の講中が御師とどのように関わり参詣したのか、見ていきたい。

御岳講
御師を受け入れ御岳山に参詣することを決めた村では、まず講というものが組まれる。村人達は「御岳講」の講員として神社に参詣するのだが、これは「講中」とも呼ばれる。神社に参詣するとなると奉納品や寝食の費用がかかるため、毎年村人全員が行く訳にはいかない。そこで村人の中から毎年代表者を選出して、彼らに村の代表として参詣してもらうことにした。これを代参と言う。

代参
村の代表として参詣する講員は、くじで選ぶことになっている。毎年くじを引いて代参する者を数名決めるが、過去に代参した者はくじから外し、同じ人が偏って当たらないようになっている。そのため村人全員が一通り代参することができるようにくじは作られている。

毎年代参者は、御岳山に登り御師の家に泊まり、神社に参拝してお札をもらって帰る。大抵農業の閑散期の春に参詣するが、初穂物として米・麦・そば・栗・餅栗など、村で採れたものや特産品を持っていく。そして金銭を収めお札をもらう。後述するが、場合によっては神楽を奉納したり、マキ銭といって神社への道中、周辺住民に金銭や穀物を撒くこともあった。

庚申待・日待
代参者が持ち帰るお札は、代参日待や帰り日待の席で講中各員に配布され、講員各自は戸口や竈(かまど)に神札を貼り付ける。この村人たちが代参者を迎える席を、代参日待・帰り日待・日待といい、また庚申待の時にそうする地域もある。

昭和の頃には懇談の場となっていただろうが、江戸時代では神主や御師から得た貴重な情報を講員に知らせる大事な場であったと思われる。御嶽神社には各地の講中が参詣するため、作物に関することを始め政治や経済など、様々な情報が集まった。

御嶽神社のホームページには、干ばつや台風、害虫に強い稲などが各地の講から持ち寄せられたことが書かれているが、それらを別の講が持ち帰ったことも想像できる。村人にとっては作物の出来不出来に関わる大事な情報を集める、重要な場であったことが分かる。

雨乞い
『武州御嶽山信仰』(西海賢二著 岩田書院)に紹介されている御嶽講の記録を見てみると、御岳山に登った村人たちが観光や行楽目的だけで御嶽神社に登拝した訳ではないことが分かる。

立川市柴崎のある講中の記録では、大正7、8年頃まで雨乞いの儀式が行われていたらしい。柴崎村の35軒から選出された2人の講員が、竹筒を持って御嶽の綾広の滝付近から水を汲み、途中こぼさないように注意し、講中の待つ諏訪神社に奉納する。

水を運搬する間は決して後ろを振り返ってはならないという禁忌があったらしい。神社に奉納された竹筒の水は、境内につくられた蛇形の藁人形とともに多摩川に流された。また、小金井市の講では、竹筒に御嶽の水を入れてもらうと、それを途中休まずに村まで持って帰ったらしい。途中休むとそこで雨が降ってしまうとされ、休まず歩き通した。朝早い4時ごろ、御嶽講の代参者が水をもらいに出発するのだが、その途中で水や茶を飲んでもいけなかったらしい。

養蚕業
東京都武蔵村の講では、代参者が持ち帰る箸が大切にされたことも記されている。この村では養蚕業が盛んだったようだが、御嶽神社に代参したら食事で使う箸を必ず持って帰ったようだ。登拝して御師の宿に滞在している間は、最初に出された箸でずっと飲食し、帰宅の時にこれを持ち帰って蚕児の処理をするのに使用したというのだ。講中にとっては、御嶽神社に参詣して持ち帰ってくる箸は大事なものであった。

読み落としてしまったのか、疑問なのがこの地域では繭を年に四回取っていたらしいのだが、年に一度御嶽神社に参詣した際に持ち帰った箸をずっと使っていたのだろうか。それとも繭を取る度に代参を、つまり一年に四回も村の誰かが代参をして、箸を持ち帰ってきたのだろうか。そんなことも気になる。

狐祓い
埼玉のある講中では狐憑きが多く、狐祓いに御嶽に登ったらしい。狐といえば稲荷信仰。関東、とりわけ江戸で多い稲荷社だが、一口に稲荷信仰と言っても、その中身は色々とある。農業や子育て・安産、火災除けなどあるが、憑きものと関連するものもある。御嶽神社では戦前までは憑きもの落としを専門にする御師が数人いたようで、そうした要請から講を組んで御嶽神社に登拝した人達がいたのも、また事実のようだ。

養蚕と御岳講
以上三つの講中の例を挙げだが、ここで少し養蚕業について触れてみたい。御岳信仰が極めて篤かった地域は武蔵だが、この地は江戸時代に養蚕業が盛んになった地域でもある。

東京都・埼玉県・神奈川県にまたがる地域の中でも、武蔵野と呼ばれる東京都西部から埼玉県の荒川流域以西が、御嶽神社への参詣が熱心に行われたが、これらの地域は特に幕末の開港以降、養蚕業が盛んになる。中でも相模原市は95%が畑という畑作農村で、養蚕・製糸生産が盛んだった。

簡単に江戸期以降、養蚕が盛んになっていった流れを書いておこうと思う。

江戸時代の養蚕
貞享二年(1685年)、中国から輸入されていた白糸が制限され和糸の需要が高まると、元禄期から畿内とりわけ京都で養蚕業が起こる。近世中後期には関東・東北の諸地域まで養蚕地帯が拡張し、諸藩が国産奨励するようになる。各藩の財政は窮乏しその打開策として、和糸の商品化・国産化を推進したのだ。

年貢の代わりに蚕を飼わせて糸をとることが武蔵の地でも行われたが、その後一時、禁絹令により絹物消費は減少し養蚕業は衰退に向かう。しかし、安政五年(1858年)の日米修好通商条約によって翌年横浜が開港されると、生糸が一躍脚光を浴びる。輸出の重要品目となる。

それまで畦で桑を育てたり、麦・菜種などの作物を作る間のものとして育てたりしていたが、江戸時代後期には養蚕専用の桑畑が多く出現するようになる。下層農民も桑の生産のおかげで生産余剰を得るようになり生活が向上する。

武蔵の養蚕
そうした流れのなか、秋川流域では享保年間(1716~36年)以降から、換金性の高い桑栽培が次第に拡張され、宝暦期以後には本畑にも作付けされるようになった。八王子・青梅、あるいは他の関東農村では、これより若干先行して栽培していたらしい。品種の改良や金肥の導入により桑は現金になる作物として育てられ、稲作・大豆作りよりも有利な作物となる。

明治期の武蔵の養蚕
幕末維新期の二十数年で養蚕業は飛ぶ鳥を落とす勢いで発展する。檜原村でさ、繭商人が19人いたというのだから、その盛況ぶりは分かる。山林原野を新たに開墾し、あるいは穀物用の畑を転用して桑畑にし、海外との貿易により養蚕業は伸展して行くことになる。明治40年代は特にその恩恵を受けたようだ。

こうした背景があり、養蚕業に従事する農村の人が御岳講を結成し、御岳山に登拝するようになった。養蚕業の代参は夏が多かったようだ。春秋は繭を取ることが多かったためである。

太々講(太々神楽講中)
話を御岳講に戻して、講員が全員代参を済ませると、満講と称して講の組織替えが行われる。その組織替えをする年に講員総勢で御岳山に参詣して太々神楽を奉納する講が多く、それを太々講という(太々神楽講中とも)。

これは先述の雨乞いや狐祓いの代参とは違い、一種のお祭りだったようだ。宴会は夜を徹して行われ、代参よりも豪華な食事が出された。『武州御嶽山信仰』にはその一例が書かれているのだが、代参では川鱒・酢の物・口取物・揚げ物などが出させるのに対して、太々講では川鱒・口取物・刺身・酢の物・海老・玉子豆腐・羊羹・金団(きんとん)・蒲鉾・蕨の煮物・汁物、そして二の膳で鯛が出る。

酒も一斗樽(18L)が置かれ、夜を徹して飲まれたらしい。明け方に御嶽神社に参拝し、朝食となると、この時も夕食に匹敵するほどのご馳走が出る。そうした豪勢な講だったようだ。

太々神楽
太々講で奉納される神楽には山内の御師が全員参加し、これも食事に劣らず豪勢なものだった。御師にとっては大きな収入源で御師の盛衰を示すといわれるほど経済的に重要なものだった。太々神楽を奉納する値段は昭和40年は7千円、49年は2万円らしく、いずれも現在の価格にすると約7、8万円と思われる。平成か2000年になってからかの金額が確か12万円だったから、それくらいするのかもしれない。

ついでだが、神楽は太々講の時だけでなく、代参の時にも奉納される。値の張るもので毎年奉納されることはないが、作物の不作の年には奉納されることが多かったようだ。昭和40年以降は御嶽講は減少の傾向があるが、それでも年に50~70回の神楽が奉納されていたらしい。

マキ銭・マキ餅
山上の御師の重要な収入の一つに、マキ銭というものがある。これは太々講の時に講員が沿道(参道)で投げる銭や餅のことである。参拝途中に御師の家や庭先、サカド前で村から持参したマキ餅・マキ銭、地域の特産物を配る。

これは御嶽山の人々にとっては大きな臨時収入だった。マキ銭はどんなに少ない講でも3万円、多い講中になると10万円は撒くというのだから、大した金額である。太々講の時は神楽に宴会にマキ銭にと、一つの講で100万円は動き、その中からかなりの金額が御師の手元に残ったというのだから、御師にとっても講中にとっても大きな行事だったことが分かる。

寄せ講
寄せ太々講というものもある。講員が20人を満たないといったように、少ない講員の場合、太々神楽を奉納することが難しい。そうした時には、各講中を集めて共同で太々神楽を奉納させることも行われていたようだ。各講中が御師の家に集まり、合同で神楽を奉納し宴会を行うといったもので、明治中期から大正の末まで頻繁に行われたようだ。

この時期は御師の衰退期とも重なり、収入を何とか増やそうとした苦し紛れのものだったとも言える。しかし、寄せ太々では一講分の神楽料しか入らなかったようで、割に合わないものだったのもあり、昭和40年以降に消滅している。

鳥居をくぐって御嶽神社の拝殿へ向かう石段には、多くの石碑が並んでいる。これは各地から講を組んで御嶽神社に参詣した講中のものである。石碑の多さから、講中の多さが分かる。

終わりに
以上、ざっとではあるが、御嶽信仰や御師、御岳講について書いてみた。更に興味のある方は、『武州御嶽山信仰』を一読することをおすすめする。

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値段は高く(7900円+税)気軽に手を出せるものではないが、ネットでは知れないことが沢山書かれている。神社の活動や信仰だけでなく、中世から戦後に至るまでの庶民の暮らしがどのようなものだったのか、どのような時代の変化があったのかも知ることができる。史料には送り仮名や訳がついてないので読み取れず、専門家が読む本なのだろうが、史料抜きにしても御岳について知ることができる良書である。

何と言っても、実際に1年だったか、著者が御岳山の山上に住み込み、集落の人から話を聞き、残されている文献を調べたものをまとめている本なので、貴重な本だと思う。御岳山信仰について調べたい人にはよいのではないかと思う。図書館にあれば是非とも読んでもらいたい本でもある。自身も金銭的にも時間的にも今より余裕ができたら、買って何度も読みたいと思っている。

参考文献
西海賢二『武州御嶽山信仰』岩田書院(2008年)

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武蔵御嶽神社
http://musashimitakejinja.jp/

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