京都府【旅の拾いもの】明治期の大土木事業の金字塔 琵琶湖疏水

京都府

近代日本の土木事業で大偉業として知られているものに、琵琶湖疏水がある。衰退した京都を復興させるために、琵琶湖から水を引き生活・工場・灌漑・防火用水に用い、また水力発電を行い工業を興した大事業である。

当時日本ではまだ誰も行わなかった竪坑方式を用い、当時最長となるトンネルを掘り、世界最長のインクラインを施設し、世界でもまだ普及していなかった水力発電を実用化した大偉業である。工事期間は4年と8ヶ月、1日の最高作業員は5千人、延べ400万人が従事し、京都府の年間予算の2倍もの費用がかかった。

この琵琶湖疏水の何が凄いのかというと、日本人の手で完成させたことである。近代化を始めた明治時代、土木工事のほとんどがお雇い外国人の手を借りて行われた。明治初年から22年に雇われた外国人の中で、従事したのが一番多かったのが土木事業で、それだけこの分野では西洋との遅れが顕著だった。

国土の保安と殖産に重点が置かれ治水をはじめとした土木工事が各地で行われたが、高所得のお雇い外国人への反発は大きかった。確かに土木の技術や知識には長けていたが、彼らは日本の地理を知らなかった。西洋にはない多湿な気候を知らず、地震の知識も乏しかった。お雇い外国人の手により行われた工事が全て成功した訳ではない。中には高額な給料を更に上げるよう催促したり、技術を出し惜しみする者もいたという。

それでもお雇い外国人に頼らねばならなかったのは、当時の日本人では工事の設計ができなかったからだ。『京都インクライン物語』によると、当時は正確な地図がなく測量ができず、建設計画を立てることができなかったという。

日本語で書かれた説明書や事典などなく、まともな機械もない。そんな状況で、工事の主任技師の田辺は海外の本や論文から技術や施工方法を学び、それを取り入れ、実行した。田辺が主任技師に抜擢されたのは、現在の東京大学工学部の前身の一つ、工部大学校を卒業したばかりの21歳という若さだった。

現場に排水用の蒸気ポンプや掘削機などの新しい機械を導入するも、止まっては修理して直すといったことが繰り返された。硬い岩盤に苦労し1日に2センチしか進まないこともあった。落盤事故やコレラなどの疫病の蔓延、工事費を負担する住民の反発など、多くの困難の中、田辺は日夜その完成に時間を費やした。

そんな難工事の中でも、田辺は日本の土木事業の発展のために、当時はなかった工法の事典のようなものを忙しい日々の合間を縫って作ったという。

そして工事が始まってから4年8ヶ月後の明治23(1890)年、遂に琵琶湖の水が京都に流れ、琵琶湖疏水が見事完成した。

琵琶湖から流れてきた水は水力発電に使われ、灌漑、防火、工場用水に使われ、京都の工業化に貢献した。京都の町に明かりが灯され、電車が走り、水道水が整備され、東京遷都により衰退した京都は見事復興した。そして今もなお京都の重要なインフラとして活躍し続けている。

琵琶湖疏水の凄さを知ったのは、『京都インクライン物語』を読んだ時だった。旅で蹴上インクラインと南禅寺水路閣に行く前にネットや本で調べて興味を持ち、旅の最中に琵琶湖疏水記念館の展示で更に興味が増し、旅が終わってから『京都インクライン物語』を読んで、偉大さを知った。

『京都インクライン物語』のレビューはこちら↓

明治の大事業 琵琶湖疏水を描いた一冊『京都インクライン物語』 | 見知らぬ暮らしの一齣を (tabitsuzuri.com)

琵琶湖疏水の凄さを知って、また疏水の遺構を観たいと思うようになってしまった。機会があれば、改めて琵琶湖疏水の遺構を訪れ、その凄さを現地で感じてみたいものだと思う。

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