【旅の拾いもの】日本一周4日目・5日目 和歌山県 熊野詣から知る日本の中世②

和歌山県

熊野御幸の最盛期
熊野御幸の最盛期の数だが、火付け役となる白河上皇の最初の熊野御幸から、実質最盛期が終わる後鳥羽上皇の最後の熊野御幸まで、121年間で92回となる(回数は諸説あり)。白河上皇は第一皇女の死を機に出家し、第一回目の熊野御幸から第二回目までは26年、間が空くが二回目以降は熊野御幸が大流行することになる。26年振りとなる白河法皇の熊野御幸以降は、9回熊野御幸が行われるがそのペースは、ほぼ1年半に1回の頻度で、このペースが鳥羽上皇にも継承されていく(小山靖憲『熊野古道』)。

院政期の度重なる熊野御幸により、熊野は権力や財力を持つようになり、紀伊路を参詣する際の設備も整えらるようになる。伊勢参りを遥かに凌ぐ勢いがあり、熊野三山はその名を全国に轟かせるようにもなる。そういう意味で、上皇の熊野御幸が熊野三山に与えた影響はかなり大きい。熊野御幸によって、熊野三山は中央との政治的結びつきを持つようになり、権力を増大していった。

結果としては、これが上皇の熊野御幸の終焉と、熊野三山の権威の衰退の原因となるのだが、熊野御幸があったから参拝路の整備という、インフラ整備が行われた。上皇による熊野御幸は、熊野の名を全国に知らしめ、その後の武士や庶民の熊野詣の土台を作ったともいえる。

上皇の熊野御幸について、熊野三山の権力と参詣路の整備の二つの面から、もう少し掘り下げてみてみたいと思う。

熊野三山の権力増大
白河上皇の御幸の第一回の時に、三山検校に園城寺の修験者が任命され、これにより伊勢と熊野を同体とする古代信仰が解体され、熊野は仏教化した独自の教団を組織するようになった(五来重『熊野詣』)。これは、都から独立していた熊野が、中央の寺社勢力の秩序に組み込まれたことを意味する(小山靖憲『熊野古道』)。

それまでは経済的基盤の貧弱だった熊野は、白河上皇の熊野御幸の第一回の時に、紀伊国の田畠100町を寄進され、領地が増えた。1町が約1ha(100m×100m=10,000㎡。サッカーコートの1.4倍)だから、相当の敷地である。以後、熊野御幸が行われる度に多くの土地や造営費などが賄われ、熊野は経済基盤を固めていくことになる。

三山検校
三山検校とは、上皇や都の貴族とのやりとりをする役職を指す。参詣の際の正統的な法会や修法を整え、また上皇や摂関のような都の貴族を迎え入れる際に接待する役のことである。田舎者の自然発生的集団では到底そんなことはこなせないため、生まれの良い学を修めた相応しい人物が就任することになる。

白河上皇の熊野御幸の第一回の時に三山検校に任命されたのが、増誉という人物であるが、この人物は大納言経輔の子供で大僧正である。天台寺門宗の総本山である園城寺の僧であることからも、その出自の高さが分かる。

大納言といえば、政治の世界ではNo3のポジションになる。天皇の下に総理大臣にあたる太政大臣がいて、その下に左大臣・右大臣がおり、その下に大納言がいる。また、大僧正とは僧の最高の位である。身分の高さがうかがえる。

三山検校は、熊野三山が権力を高める上で欠かせない役職であったが、政治や経済の舵取りは別当という別の役職が担い、三山検校は宗教上の教権を担うものであった。

熊野別当
熊野三山の政治や経済の俗権にあたるものを仕切ったのが、熊野別当である。熊野三山の組織のトップである。当時の寺社には僧兵がいて、自分の領地を武装して守っているのだが、熊野にも当然僧兵(山伏)がいた。僧兵だけでなく、熊野水軍も統率していた。

良港があり豊富な船材がある熊野は、耕作地が乏しいこともあり、海に出てその活動を広げてきた。熊野水軍は京都に船で押し寄せて威嚇することもあったようだが(まるで興福寺や比叡山の僧兵みたいだ)、源平合戦の時には活躍している。壇ノ浦の戦いでは源氏方に付き、その勝利に貢献している。この熊野水軍を統括していたのが熊野別当であるから、熊野別当は政治や経済だけでなく、軍事も仕切っていた。

別当家に率いられた武士団と、全国的に布教活動をしている勧進組織から熊野は成り立っていたのだが、別当は軍事的には武士団の棟梁であり、宗教的には熊野修験道の管長だった。そして経済的には荘園を支配しており、教権と俗権とを併せ持つ権力者だった。熊野の政治・軍事・経済の実権をすべて握り、三山の神官、社僧、衆徒、御師、巫女、比丘尼を支配し、地方在住の山伏も統括した。別当の命令で配下の僧や山伏はいつでも軍事力となった(『熊野詣』)。

熊野の勢力拡大
上皇の熊野御幸が頻繁に行われるようになると、同時に公家からの寄進が増え、熊野の経済力は益々増えていくことになる。熊野大権現(熊野の神々の総称。熊野三山の神をまとめて表す)に寄せられた神領や荘園は、耕作地の乏しい熊野にとって大きなものだっただろう。この経済力を背景に山伏や比丘尼と呼ばれる宗教家が各地で布教活動を行い、ますます熊野の勢力は増えることになり、熊野は平安末期から中世にかけて宗教界に君臨するようになる。

その富と権勢は国司領主を凌ぐといわれ、中央貴族も熊野別当と縁組することを望んだ。厳密には中世のいつの頃かは分からないが、熊野は50万石もの石高があり、江戸の大大名に匹敵するほどであったともいわれている。縁組に関しては、貴族に限らず平氏や源氏も熊野水軍との関りを持とうと接近し、縁組をしている。源平の争乱では最終的に熊野水軍が源氏に味方して平氏に勝ったことは先述の通りである。

参詣路の整備
こうしてみてみると、改めて白河上皇の熊野御幸が熊野三山に与えた影響は大きいことが分かる。先にも書いたが、上皇の熊野御幸により熊野は中央の権力に取り込まれ、仏教に傾斜していく。それが最も顕著だったのが、参詣路の変更である。新しい参詣路が作られることによって、宿泊地や儀式を行う場所が整備されていくことになる。

上皇の熊野御幸によって新しく整備されたのが、紀伊路である。それまでは伊勢路が使われていた。奈良や京都から熊野に向かうには伊勢路の方が近いし、熊野は伊勢と同体の信仰があったため、神宮に参詣してから熊野に向かうことが多かったからだ。それが上皇を迎えて熊野に参詣するとなると、神道とは切り離した参詣にする必要が生まれ、紀伊路が発生することになる。

浄土信仰の影響を強く受けた僧によって管理されている熊野は、伊勢と「絶縁」しなければならなくなったと、『熊野詣』には書かれている。上皇の御幸は莫大な経典仏具を運ぶ行列だったが、この行列で堂々と伊勢を通り、仏事を嫌った大神宮に奉幣して熊野へ移動するというのは、かなり気が引けるといった面があったのだ、と。

そしてもう一つ、このような巡礼巡拝には難路悪路を苦労して詣れば詣るほど、功徳が大きいという苦行の論理があった(『熊野詣』)。苦行については後ほど触れるが、より大変な行程を参詣するほうが功徳が大きいとされるため、伊勢路よりも距離が長く、そして険しい行程になる紀伊路が使われるようになった。

海原猛の『日本の原郷―熊野』では、白河上皇は藤原氏との関係の深い伊勢を敬遠したかったから、伊勢路から紀伊路への変換が起こったと書かれていた。当時の時代背景をみると、これもその要因だとも思える。白河上皇は絶大な権力を持った藤原氏から離れるために、院政をつくり朝廷ではなく院庁で執政したことからも、藤原氏から距離を置きたかったことは確かだろう。

こうした理由により紀伊路という新たな道が整備されるようになった。

院政開始前後の熊野詣
当時の紀伊路を使った巡礼がどのようなものだったのかは、貴族の日記から知ることができる。白河上皇の第一回熊野御幸の10年前の永保元年(1081年)、藤原為房(ためふさ)が熊野に参詣しており、その全行程が日記に残されている。『大御記(だいぎょき)』には最古の参詣記があり、院政開始前後の熊野詣のことがこれから知ることができる。藤原為房は、藤原北家の庶流の代々官僚を家系の者で、後三条・白河・堀河・鳥羽天皇に蔵人・蔵人頭として仕えた人物である。

日記によると、為房は9月21日に京を出発して、10月5日に本宮に到着している。京都から往路で15日、帰路は寄り道をしても9日というのが平均的にかかる日数らしい。出発前の13日から役所に出仕せず、16日に陰陽師に参詣の日程を決めてもらい、17日に精進屋に入り4日間精進潔斎を行い、21日に出発している。陰陽師に参詣の日程を占ってもらい決め、出発前に数日籠って精進潔斎するのは、上皇の熊野御幸にも共通する作法である。

京を出発してからは、石清水八幡宮で奉幣し淀川を船で下り、中辺路ルートをとって本宮に参詣した後、新宮と那智へは参詣せずに引き返しているのだが、このことから、熊野詣の最終的な目的地は本宮であることが分かる。

また、日記からは、京都から熊野までの長期間、旅に必要な宿泊所や物資・食糧などを現地で調達しており、このことから現地調達できる供給システムがすでにできていることが分かる。

宿所や物資・食糧は、藤原氏一門の荘園と沿道の土豪の知人からの提供を中心としており、国衙(国司の仕事する場所、役所のようなもの)機構がこれを補うかたちとなっている。それぞれの宿では荘園や沿道の土豪、国衙・郡司などから頻繁に食料や必要な物資の提供を受けており、すでに11世紀後半には貴族層を対象とする熊野詣のシステムがほぼ出来上がっていたことが分かる。白河上皇の参詣もこのようなシステムをそのまま使ったものであり、上皇の独創ではないことが分かる(『熊野古道』)。

中世の貴族の参詣
11世紀の後半には貴族層を対象とした熊野詣があったことは興味深い。呉座勇一氏の『日本中世への招待』には、12世紀に貴族の間で寺社巡りが行われていたことが書かれているが、その先駆けとして熊野詣があったのだろうか。貴族が数日かけて寝泊まりしながら寺社に参詣するのが広まり、講が組まれるようになり、それが武士へ、庶民へと長い時間をかけて広まっていった流れがこのことから分かる。


前回の伊勢参りで講について、講というシステムができたのは中世に遡ると書いたが、『日本中世への招待』では12世紀には貴族の間で講が組まれて寺社参詣がされたことが書かれている。

室町時代に朝廷に仕えた官僚の中原康富が記した『康富記』には、上司や同僚、部下と共に伊勢講に参加し、毎月会費を積み立て、伊勢参りをしていることが記録されている。江戸時代の伊勢講は代表者が参詣するものだったが、室町時代のそれは全員が参詣するもので、講のメンバー全員で6泊7日の旅をしている。

講は経済力のない庶民(村人)のためのシステムだと思っていたから、そうでない貴族が講を組んでいたのは面白い。中世の講や貴族の寺社参詣について、もう少し本を読んでみたいが、なかなか読めそうな本が探せずにいる。『社寺参詣の社会経済史的研究』や『近世寺社参詣の研究』という興味のある本があるが、試しに買って読んでみようかと思うような金額ではないし、まず読める自信がない。『寺社参詣と庶民文化』という読みやすそうな本があるので、機会があれば読んでみたいと思っている。

宿泊地などの施設
さて、貴族の熊野詣だが、藤原宗忠が書いた『中右記』の天仁2年(1109年)の記録には、宿泊地についても書かれている。参詣の行程は非常に厳しいもので、「手の平を立てたような急坂」を登り、1日に170町(1町は約110mだから約18.7km)歩く日もあり、疲労困憊しながらの行程だったことが分かる。1日に120~130町、険しい山道を歩くことが多かったらしい(『熊野古道』)。

そんな中、荘官の家を利用できる時はそこに泊まれるが、そうでない時は山中の仮小屋や農民の小屋に泊まることが多く、厳しかったことが分かる。また、三山の各所で宿坊に泊まっており、当時は既に現地で宿を提供する御師がいたことが分かる。

先の藤原為房の熊野詣の時は、寺社の小堂、寺院、湯屋、人宿、土民宅、草庵、住人宅、庄家などに泊まっている。草庵は野宿用の仮小屋であるが、それを除けば荘園の事務所や荘官の居宅が多く、藤原宗忠の時よりも恵まれている。

こうした宿泊所も上皇をお迎えするとなると、当然お金をかけて整備された。宿だけでなく儀式を行う場所も整備される。道中では禊を祓う様々な作法があり、王子社と呼ばれる場所で奉幣が行われた。奉幣とは、神前に貴重な麻などの布や衣服、紙、玉、酒、神饌、貨幣などを献奉することである。般若心経などを読む経供養も行われる。

また有力な王子社では、奉幣の他に、舞や神楽、相撲などの芸能が行われていた。これは神仏を楽しませるための法楽として演じられたもので、その延長線に和歌会(わかえ)というものもあり、和歌の会も催されている。

上皇の熊野御幸では道中ではそうした儀式があったため、それを行う寺社もそれなりに相応しいものになっていった。

苦行
儀式の多さが気になるが、その理由として苦行のことにも触れておこう。本来、熊野参詣では苦行が行われるものである。これは修験道の影響だが、熊野独自の滅罪法である。修験道では、人間は多くの罪業により現世と来世の地獄の苦しみからは逃れられないものである。人間には、過去現在の己が犯した罪だけでなく、自分に責任のない前世や、あるいは先祖の罪業もある。だから病気や天災などの不幸が起こり、来世では地獄の苦しみがあるとされていた。しかしその逃れ難い苦しみから逃れる方法に、苦行という滅罪法がある。

仏教(浄土宗)では、作善(さぜん)と呼ばれる善行が、現世・来世の苦しみから逃れる術とされた。具体的には、写経や造寺・造仏・造塔、あるいは僧を供養し、法会(ほうえ)維持に金銭や労力を提供することである。これをもっと簡便にしたのが融通念仏に参加することだった。融通念仏とは、自分の唱える念仏が他人の唱える念仏と阿弥陀仏の本願力と融けて合わさり(融通)、自分も他人も救われるというものである。

熊野では浄土宗のそれとは違う滅罪法として、苦行という独自のものを用意した(『熊野詣』)。禊祓(みそぎばらい)や山林での苦行である。罪は穢(けがれ)であるから、禊祓によって消滅するとともに、苦行という肉体的苦痛によって贖う(あがなう)ことができるという論理だ。

熊野詣をする時はまず前行として、精進屋に籠って禊祓をする。そして出発してからは、熊野古道にある王子社に寄って、その社ごとに禊祓を行わねばならない。そして更に紀伊路のように山坂の多い厳しい道を通って、辛い思いをしなければならない。その行程は苦痛が多ければ多いほど、功徳もまた多いと考えられている訳だがら、参詣する者は紀伊路の厳しい山道を厭わずに行進したのだ。

勿論、山伏が行うような本格的な修行(苦行)を上皇や貴族に勧める訳ではない。険しい山中を数日歩くだけでも、十分苦行である。雨が降れば着物の裾は濡れ、歩くだけでも不快極まりないだろう。上皇の熊野御幸で儀式が多いのは、苦行という肉体的負担を、奉幣や神楽・和歌会などの儀式に転用したためだろう。熊野三山にとって大事な支援者を逃さないよう、都の文化や思想を歓迎しつつ、熊野の修験道の滅罪法を損なわぬよう、配慮したものと考えられる。

莫大な費用を担った庶民
白河上皇の2回目の熊野御幸から、上皇による熊野御幸が頻繁になり、道中の宿や王子社をはじめとした建物が増築されていく訳だが、これらの経費は公家からの援助だけで賄われた訳ではない。寺社とは関係のない場所にある宿などは、国衙が担うものとされた。国司が宿を造らねばならず、その莫大な費用は税収によって賄われた。

鎌倉時代には、紀伊湊に入湊する船舶に通行税を課し、それで賄ったという記録がある(『熊野古道』)。当然民衆に対しても相当の賦課があった。貴族が泊まる宿に収める物資は、地元の民が負担した。『熊野古道』には次の物が課されたことが書かれている。食べ物では、菓子(木の実)、酒、酢、味噌、塩などの調味料。生活用品では、食器、油、炭、焚火などの燃料、照明具。そして移動に必要な馬への大豆などの飼料。質素とは言え、これらが熊野御幸の度に民衆に課せられた。神仏に捧げる聖なる公事として、民衆に課されたのだ。ついでに、馬だが、スムーズに移動できるように伝馬制がしかれた。

以上、上皇による熊野御幸から、紀伊路の発展をみてきた。最盛期は121年間で92回というペースで行われた熊野御幸が、熊野三山やその領地にもたらした影響は非常に大きい。参詣の回数が多ければ多いほど功徳がある、という修験道のこの考え方が、上皇の熱狂的な熊野信仰を高めたと考えられる。

そして熊野御幸の規模はどんどん大きくなり、準国家的な年中行事となっていくのだ。上皇単独での熊野御幸は少なくなり、女院を同道する両院御幸となり、上皇・法皇だけでなく、その皇后、中宮や妃などの女院が頻繁に参詣するようになる。そして、高野山と違って女性の参詣を広く受け入れていたところが熊野詣の特徴だといわれるようになる。

承久の乱による熊野御幸の衰退
中央との結びつきを強めた熊野三山は、そのおかげで経営基盤を潤し、独自の組織をつくり勢力を拡大していくことになる。しかし同時に、政局に振り回されることとなり、結果として領土を減らすこととなる。

白河上皇か崩御されると鳥羽上皇の院政となり、その後は後白河上皇の院政、後鳥羽上皇の院政となる。保元の乱という朝廷の内紛(崇徳天皇と後白河天皇との対立)が起こり、これが平治の乱へと繋がると平清盛が台頭するようになる。そしてその後、源氏が平氏を破り鎌倉幕府を成立させ、武家が朝廷を上回るようになっていくのだが、この頃が後白河上皇の院政期になる。

後鳥羽上皇が院政をしく頃には朝廷よりも武家の方が勢力が強くなっており、後鳥羽上皇は院政の最盛期であった白河上皇の頃の院政を復活させようとしていた。熱心に行っていた熊野御幸も、その度に幕府の許可が必要で、そのことに対しても快く思っていなかったようだ(『日本の原郷 熊野』)。

そんな状況の中、頼朝が死に二代目将軍頼家が幽閉後に殺され、三代目将軍実頼が鶴岡八幡宮で暗殺される。一般的には頼朝方の比企氏と政子方の北条家との権力闘争による後継者排除とされるが、これにより源氏の正統な血筋が途絶えることになる。将軍不在、そして源氏の正統が途絶えたことによる幕府の動揺は大きく、これにより幕府が弱体化したとみた後鳥羽上皇は倒幕のため挙兵する。こうして起きたのが承久の乱だ。

三代将軍源実頼の暗殺後、実権を握った北条義時に対し、後鳥羽上皇は義時追討の院宣を発し、鎌倉幕府を朝敵とする。幕府不利とみられたこの事態も、北条政子の有名な演説があったからか、それとも当時幕府にいた朝廷出身の大江広元の活躍があったからか、戦いは1カ月で収束し幕府の勝利として終わることとなる。北条政子の演説で鎌倉の御家人の士気が上がり、大江広元の主張した短期決戦が功を奏したといわれている。

後鳥羽上皇は隠岐に流され、上皇側についた勢力は鎌倉幕府に制裁を加えられることになる。この上皇側についた勢力として知られているのが、熊野の勢力である。後鳥羽上皇は承久の乱の3ヵ月前に熊野御幸をしており、その際に熊野の勢力が上皇方につくという密談が行われたともいわれている。真相は定かではないが、乱の時に熊野田辺別当家の快実(かいじつ)をはじめとした、熊野の有力者が積極的に参加しており、これが熊野の勢力を一気に衰退させることになる。

承久の乱に熊野の勢力が一丸となって上皇に味方した訳ではなく、丸々取り潰しにあった訳ではないが、その影響は大きなものとなる。乱に参加し息子共々戦死した快実は熊野別当の田辺家だったが、新宮家からも上皇に味方した者がいた。熊野御幸の始まりで最盛期を迎えることになる熊野別当は、その後、新宮家別当(新宮を本拠に置く)と田辺家(本宮と田辺を本拠に置く)に分かれている。二つの別当は対立していたが、どちらからも上皇方に加わっていたため、幕府からの制裁は避けられないものとなった。有力な人材が多く戦死した田辺家の崩壊は、特に著しかった。

熊野水軍は壇ノ浦の戦いで源氏に味方した経緯があり、また鎌倉幕府の成立当初は西日本の統治は朝廷が行っていたこともあり、熊野の勢力は鎌倉幕府から圧力を受けることはなかった。幕府が全国に守護・地頭を設置しようとした際も、熊野には御家人を置かず、紀伊・和泉領国の守護職を停止し、上皇の熊野御幸の便宜を図っていた。

優遇されていた熊野であるが、承久の乱後は幕府からの援助はなくなり、熊野の所領は没収され幕府から冷遇され、熊野は経済基盤を失い急速に勢力を縮小させることとなる。後鳥羽上皇の10カ月に1回、計28回の熊野御幸は、上皇の側につかざるを得ない因縁を熊野の勢力に課した(『日本の原郷 熊野』)訳だが、これは中央の政治に取り込まれた熊野にとっては避けられないものだったのだろう。

源平合戦から分かるように、朝廷だけでなく武家政権からの取り込みもあった熊野は、もはや朝廷や幕府の政治闘争や後継者争いなどで起こる戦争に、遅かれ早かれ巻き込まざるを得ないものだったのだろう。荘園をはじめとした領地の寄進や援助を受け成長した以上、権力争いに組み込まれるのは必至で、そこから逃れることはできなかったのだろうと考えられる。

つづく(次回は、熊野詣の最盛期と御師や先達について)

参考文献
小山靖憲『熊野古道』岩波新書(2000年)
五来重『熊野詣―三山信仰と文化』講談社学術文庫(2004年)
梅原猛『日本の原郷 熊野』新潮社(1990年)
呉座勇一『日本中世への招待』朝日新書(2020年)

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