【旅エッセイ】日本一周旅4日目 和歌山県 熊野三山の歴史を知る一日

和歌山県

旅の4日目は和歌山県にある熊野三山に行った。世界遺産に登録されている有名な観光地だ。前日に紀伊勝浦駅にある安いビジネスホテルに泊まり、紀伊勝浦駅からバスで神社を巡った。駅の近くにある熊野交通でバスのフリーパスを買い、それを使って熊野本宮大社に向かう。紀伊勝浦駅からは1時間半の距離だ。

天気に恵まれ、晴空の下バスで山道を登っていく。途中、バスは3つの温泉地に立ち寄っていく。川湯温泉と渡瀬温泉、湯の峰温泉だ。旅の時には知らなかったのだが、湯の峰温泉は開湯1800年といわれる、日本最古とされる温泉だ。ここは熊野に参拝した多くの人が立ち寄った場所としてと知られている。目の見えない者やハンセン病を患った者もこの地で回復を祈り湯に浸かった歴史のある場所だ。「蟻の熊野詣」という言葉があるように、熊野には多くの参拝者が訪れた。「旅の拾いもの」の3日目では、江戸時代に爆発的な流行を起こしたお蔭参りについて触れたが、お蔭参りが起こる前の時代は、熊野詣の方が参拝者が多かった。上皇が参詣された熊野御幸は日本史や古典の教科書に載っていたのを覚えているが、かなりの頻度で熊野御幸が行われている。また、承久の乱後は武士の参詣が増える。そしてその後に庶民の参詣が増えたといわれているが、その以前から、御幸が行われる前から、庶民の参詣は行われていたともいわれている。この辺のことは旅の拾いもので書いているので、読んでもらえたらと思う。とにかく熊野には、身分を問わず多くの人々が祈りを捧げに来たという歴史がある。

温泉街を過ぎ、本宮大社前のバス停で降りると、熊野本宮大社の立派な鳥居が見える。鳥居をくぐって境内に入ると、空気が変わる。立派な樹々が陽の光を遮り、境内は涼しく、静かな空間が広がる。両脇に杉の木が並び、その真ん中に石段が続き、何とも雰囲気がいい。こういう石段のある寺社は好きだ。修験道を思わせる。昔の人は遥々遠くから神社やお寺を目指した。今のように交通が発達しておらず、歩いて何日もかけてやってきたのだろう。そんな苦労が石段を一段一段歩いていると、少し感じられるのだ。一段一段、階段を歩いて本殿に向かうと、ご利益があるように思えてしまう。平坦な道を歩いて本殿に向かうのとは違い、坂や石段を登って行くことに、参拝する喜びがあるともいえる。参拝するまで苦労すればするほどご利益があるとされ、肉やお酒を経ち、険しい道を歩いて発願する。大袈裟にいえばそんな修験道のような感じがするから、石段のある寺社や山の中にある寺社は好きなのだ。自分の漠然とした感覚では、神社やお寺はこういう自然の豊かな、坂や階段のある場所にあってこそ、寺社といえる気がする。旅を始めてようやく神社らしい所に来ることができたと、感慨深かった。

2015年熊野本宮大社の石段

階段を登っていると横に八咫(やた)烏のポストの案内板があり「出発の地」と書かれている。階段を登って神門に着くと、「出発の時」と書かれている。熊野本宮大社は、出発の地なのだ。「よみがえりの地」といわれている熊野は「出発(たびだち)の地」でもあるのだ。熊野三山を参拝する順番は本宮から始めることが多かったとされている。紀伊路といわれているのだが、京都から紀伊半島の西側を歩き本宮に向かう旅路は、険しい道のりだった。現世で苦難の道を歩くことで、来世で極楽浄土に行くことができると信じ、多くの人々が熊野に向かったが、その行程は一旦死んで再生することが暗示されていた。熊野は「死の国」と考えられており、そこに極楽浄土があると考えられていた。本当に浄土を目指した者もいたが(捨身という一種の自殺があったが、これは「旅の拾いもの」で触れている)、途中死ぬことなく熊野詣をした人がほとんどだ。死の国に足を踏み入れ、そこで禊を行い祈り、お布施やお供えをして功徳を重ねながら険しい山道を歩き、やっとの思いで本宮に辿り着く。その過程で一度死に、本宮で生まれ変わり新たな人生を始めると考えられていた。そういった理由で、出発(旅立ち)の地といわれているのだ。

2015年熊野本宮大社の神門

本宮の拝殿に参拝した後は、石段を降り近くにある大斎原(おおゆのはら)へ行く。大きな鳥居のある場所だ。実はここは明治まで本宮があった場所である。明治22年の洪水で本宮が倒壊したため、現在の場所に移されているのだ。現在はダムができたおかげで隣に熊野川があるだけだが、当時は熊野川・音無川・岩田川の合流点にある中洲に本宮があった。約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿や楼門、神楽殿や能舞台などがあり、現在の数倍の規模だったとされている。現在の場所に当時あった社が全て移された訳ではなく、上四社が遷座され、現在も中四社下四社が大斎原に祀られている。3つの川の合流する中洲という不安定な場所になぜ本宮があったのか、そして現在の地になぜ一部しか移動していないのかといったことは、今でもはっきりと解明されておらず謎なのだそうだ。

この場所は素晴らしかった。遠くから見ると、大鳥居しか無い。大鳥居の先に何があるのか見えない。見えるのは森だけだ。まるで別世界に足を踏み入れるようで、大鳥居をくぐると、現実の世界から離れるような気がしてしまう。江戸時代までは中州への橋が架けられることはなく、参拝者は歩いて川を渡ったのだそうだ。着物の裾を濡らしながら、音無川の冷たい水で最後の禊(水垢離という)を行い、本宮に辿り着いたようだ。川を渡りながら大鳥居を見たのであろうか。この地を訪れた人々は、死から生へと変わる感覚をこの大鳥居をくぐることで感じたのだろうか。

境内は緑豊かで静かである。人もほとんどいない。空気が綺麗で清々しく、神聖な雰囲気がある。大斎原は熊野の神が最初に降り立った地とされているが、そういわれるのも頷ける素晴らしい場所だ。昨日は伊勢神宮に、一昨日は熱田神宮にと、旅を始めてから連日素晴らしい場所を歩いている。旅冥利に尽きるの一言だ。

2015年大斎原の大鳥居。鳥居の下に見える白い点は日傘で、人と比べてその大きさが分かる。

大斎原から出て現実世界に戻った後はバス停に戻る。近くに和歌山県世界遺産センターという無料の休憩所があり中を覗いてみると、熊野を説明した資料が沢山展示されている。分かりやすいパネルが多く熊野がどんな地なのか見ていて勉強になるが、こんなことが書かれている。

熊野には深い森と険しい山岳地帯があり、昔からこの場所には自然崇拝があった。また山や海の彼方は他界とされ死者が向かう場所と考えられ、霊魂崇拝の場でもあった。こうした宗教観があり、熊野本宮大社は川や樹木、熊野速玉大社は巨岩や川、熊野那智大社は滝を信仰の具現化とする。自然信仰を原点に神社神道が展開されていくが、6世紀に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み「熊野権現信仰」が全国に広まっていく。「権現」とは神が仏の姿を権(仮)りとして衆生を救うために現れるというもので、熊野の地は人々の過去・現在・未来を救済する霊場として広く人々に受け入れられていく。熊野の神(権現)は強者や弱者、地位や善悪、信不信を問わず別け隔てなく人々に救いの手を差し伸べる神仏として人々から崇敬され、多くの人々が救いを求めて熊野を目指し「蟻の熊野詣で」という言葉ができた。

熊野は3つの霊場をつなぐ場所故にその特異性があるという解説もある。詳しい内容は忘れてしまったが、熊野三山と修験道の吉野(修験道の発祥の地といわれている)、高野山の3つの霊場が繋がる場所であるということも熊野の歴史的価値を高めているのだと書かれたパネルもある。吉野や高野山については分からないが、熊野については何となくどんな場所なのか知ることができた。

和歌山県世界遺産センターを出た後はバスで新宮駅に戻り、熊野速玉大社に向かう。新宮駅から歩いて10分ほどで着くこの神社は「甦りの地」といわれる神社だ。熊野詣に訪れた参詣者のわらじが雨に濡れていても、そのまま温かく拝殿に迎え入れてきた歴史は「濡れわら沓(ぐつ)の入堂」といわれ、今でも社訓として受け継がれているらしい。険しい山路を越えてやっとのことでこの場所に辿り着いた人々は、社の前で涙に咽(むせ)んだという。拝殿に温かく迎え入れられることで、参拝者は感激の涙で心が洗われ、生きる力を得て、人生の再出発を踏み出す勇気と覚悟が与えられた。と、そんなことが熊野速玉大社のホームページには書かれている。

旅の時には知らなかったのだが、速玉大社では熊野曼荼羅の絵解きをやっている。熊野曼荼羅とは熊野の天上界や地獄、餓鬼、畜生、六道などが描かれた絵図で、人間が生まれて死んでいくまでの様子や死後の世界と救済を説明するために書かれたものだ。中世の終わりから近世にかけて、熊野信仰を広めるためにこの絵解きは各地で行われた。それを行ったのが熊野比丘尼という女性の宗教家で、彼女らは熊野三山の修繕費や参詣者を集める役割を担った。女性が各地を歩いてそうしたことを行ったことからも、熊野信仰が他の宗派とは違ったものだということが分かる。

熊野比丘尼は絵解きをしたり熊野牛玉(ごおう)という烏の集合体で作られた文字(お札のようなもの)を売り生活をしたのだが、梛(なぎ)の葉もご利益があるといって売った。古来より熊野詣に速玉大社を訪れた参詣者は、道中安全を祈り梛の葉を懐中に収めてお参りすることが習わしとされていたようだ。速玉大社の参詣の記念に持ち帰った参拝者は多く、一種のお土産として知られるようになっていたのだろう。梛の葉は繊維が横に伸びているため引っ張っても葉が破れないことから縁起が良いとされ、地元の武将は鎧の中に忍ばせて戦場に赴いたともいわれている。熊野比丘尼はこの葉を鏡の裏に入れておくと夫婦円満のご利益があるとして各地で売っていたようだ。

2015年熊野速玉大社の境内にある梛の木

そんなことを知る由もなく葉を拾うことも写真に収めることもなく、社務殿で朱印をお願いすると、神倉神社の朱印も書きますかと聞かれる。よく分からないが取りあえずお願いし、書いてもらっている間にスマホで調べてみると、これまた何とも独特な神社があるではないか。距離も歩いて15分と近いから、朱印をいただいてから早速行ってみる。境内に入ると急な石段が目の前に現れ、まるで修験道だと思いながら階段を上る。石段は急でしかも一段一段の高さが結構あり危険だ。手摺がなく怖くて後ろを振り返られない。上りはまだしも帰りの石段を下りる時は本当に怪我をしかねない。洒落にならない神社だなと思ったが、後から分かったがちゃんと階段の始まる所に無料で貸し出されている杖がある。旅をしていて後々知ることになるが、大抵石段のある神社やお寺には無料の杖が置いてあるものだ。

石段を上り切ると綺麗な海が見える平地があり、そこから更に少し上るとご神体の大岩が祀られている。大岩の下に社殿がありそこで祈れるようになっているのだが、大岩が崩れでもしたら人なんて簡単に死んでしまう。自然の前では人間なんて無力なんだなと、ありきたりのことを思いながらも自然に対する畏怖の念を感じた。

2015年神倉神社のご神体と社殿

日本一周の旅では下調べが間に合わず見逃してしまった場所が多々あったが、神倉神社は速玉大社で朱印をお願いしたおかげで参拝することができた。その後はバスで紀伊勝浦駅に戻り、ホテルに戻る前に駅の近くにあるお土産屋に寄る。那智では黒石がよく採れ特産品になっている。囲碁の碁石や硯、床置石や玉砂利、装飾品などに加工されるのだが、お土産屋には黒石で作った置物がいろいろと売っていて、熊野のシンボルとなっている八咫烏(やたがらす)もある。旅から5年も経ちこの記事を書いていて思い出したのだが、この時に黒石で作った七福神の置物を買っている。埃の被った箱から取り出してみると、小倉屋という店で買ったことや2100円だったことが分かった。自分でもよく買ったなと思うのだが、せっかくということで机に置いている。

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