【旅の拾いもの】御岳山① 武州御嶽山信仰

東京都

御岳山には御師集落がある。数十軒の家があり約140人ほどの住人がいて、主に御岳山に登って来た人達に食事や寝床を提供してその生活を成り立たせている。現在もなお御師集落がある所は珍しく、関東では御岳山と神奈川の大山だけである。

今回メインサイトで御岳山に一泊した時の記事をアップしたので、今回「旅の拾いもの」で御岳山にまつわることを書いてみたいと思う。旅をしたのは2018年の10月の終わりで、この記事を書いている現在から約2年半も前のことになるが、記事を書くにあたり御岳山信仰について調べたらいろいろと知ることができた。長くなるので、御岳山信仰、御師の活動、御岳講(檀那)についての三回に分けて書いてみたいと思う。

御師とは
まず、御師とは何だろうか。御師と書いて「おし」と読むが、御師とは神社に仕える神職で、神社に参拝しに来た人達の食事や寝床などの世話をする人のことを一般的にいう。

御師は御祈禱師の略ともいわれていて、平安時代中期に寺院で起こった祈祷を行う宗教者がその基とされている。奈良・平安期になると、仏教と山岳信仰が習合して浄土信仰があらわれる。山岳信仰では、古代より山は祖霊がいる神聖な場であり霊山と考えられていたが、神仏習合が起こると修験者が山に籠り厳しい修行をするようになる。

修行をすることで、常人では身につけられない霊力を得ることができ、また仏の住む浄土にたどり着くことができると考えられていた(厳しい修行については、「旅の拾いもの」の【日本一周4日目・5日目】和歌山県 熊野詣から知る日本の中世④に書いている)。

厳しい修行をすることで霊力を備えた修験者(山伏・聖ともいう)は、時には病を直し、時には過去の罪を取り除く方法を示し、災難が降りかからないように祈祷を行い、民衆の生活に入り込むようになる。

室町時代に入ると、御師は武士や農民のいる農村に定住化するようになり、農村でその生活の基盤を得るようになる。正式な僧侶と認められていないかった御師(山伏・聖)は、生活するための給料や食糧などを寺社から配給されることはなく、自分で生活の糧を得ていく必要があった。

祈祷や看病、葬式を担うことで民衆から金品や穀物をもらい、その生活を成り立たせていた御師だが、貴族に続いて武士が寺社参詣をするようになると、その道案内や寝床の斡旋をするようになり、それを収入とするようになる。これが御師(寺社参詣の先達としての御師)の発生とされている。

武州御嶽御師
南北朝以降の中世期になると、山岳には必ず蔵王権現が祀られ「御嶽」と称されるようになる。「国御嶽」ともいわれていたようだが、各国に一山ずつ「御嶽」ができた(西海賢二『武州御嶽山信仰』)。

東京の青梅にある御岳山のことを武州御嶽・武蔵御嶽と言うのは、全国にある御嶽と区別するためだろう。「御嶽山」と検索すると長野の御嶽山(おんたけさん)が真っ先に出てくるし、「御嶽」と検索すると沖縄の御嶽(うたき)が先ず出てくる。長野や沖縄と区別するために「御岳山」だと表記していると思っていたが、御嶽は全国にあるのだ。

山伏が里に下りてその活動の場を農村地帯に広げると、より大きな現世利益を得るために武州御嶽神社に参拝することを勧めるようになる。関東(武蔵)一円では、御嶽山の他に榛名山・三峰・大山でも同じようなことが行われ、それぞれの霊山にいた修験集団が、山下の村々に降りて武士や農民に参詣を勧めるようになる。

中世末期以降、全国各地の神社仏閣や名山に参拝、登拝する形態が一般化していくが、それに伴い御岳の近隣でも御師の案内の下、神社に参詣する武士や百姓が増えていく。そして近世になり太平の世となると、庶民の寺社参詣は最高潮に達し、御嶽神社にも多くの村人が登拝することとなる。

神主・社僧・御師の役割分担
御嶽神社は近世、神主・社僧・御師の三者によって運営されていた。三者の関係は地域によって違うものだが、御岳山では僧の力が弱く神主の権限が強かった。

神主は世襲で権現社での祭事を主に担当する。本社内陣の鍵を管理し牛王の祈祷札を出し、神社を代表して祭祀をし、山内の領主的存在として社僧・御師を統率した。神主が領主だったというのも、興味深い。そして社僧は、権現社の菩提寺を管理し、本社外陣の管理保管をし、護摩札を出し、蔵王権現社の仏教的行事を行った。

御師は各農村を廻り檀那(信者)を増やし、祈祷や護符の配礼をし、御嶽神社に参詣するように勧める。神主は布教を行う存在ではなかったため、布教活動は御師が担当したのだ。神主の支配下に入り、信徒からもらった米穀や銭を年貢として納め、神社の行事を手伝い、各地への布教活動に出かける。農閑期に檀那が登拝してくると、宿坊を用意し祈祷を行いその世話をする。

御師はいわば営業職にあたる稼ぎ頭であり、神社の運営に欠かせない存在であったため、御師の精力的な布教を行い檀那が増えていくと、自ずと三者間での影響力は強くなっていった。明暦年間には60坊もの御師がいたらしい。御師と言っても御岳山の山上と山下に分かれていたらしく、山上の御師の方が多くの檀那をもっていたため、力があったようだ。

江戸時代・明治時代の御嶽神社
慶長11年(1606年)、幕府により御岳に蔵王権現が造営される。従来南向きだった社殿は幕府のある東向きに変られ、これにより御嶽神社は幕府の管轄下での神社運営を行うこととなる。幕府の管理下で林業や石灰石を採るといったこともしていたようだ。

明治になり新政府が樹立すると、廃仏毀釈の波は御嶽神社にもやって来る。御嶽神社は元来、社僧よりも神主の力が強かったこともあり、比較的混乱なく移行したらしい。

神前に置かれていた鰐口(神社の拝殿や仏堂の長押などに懸け、手前に下げられた縄を振って鳴らすもの)が撤去され、「蔵王権現」を「御嶽大神宮」に改め、仁王門を「随身門」へ改め、境内の釈迦・地蔵・観音や梵鐘などの仏具類が即刻片付けられた。山内御師の菩提寺であった正覚寺も取り壊されている。

明治2年、3年に3度のせり売りが行われ、撤去された植木・諸道具一切が山内の御師たちに売却され、廃墟となった。現在御嶽山休憩所(ビジターセンター)になっている場所に、かつて正覚寺があったらしい。

三峰・大山では大きな打撃があったようだ。三峰・大山では社僧が一山において絶対的な力を保有し、特に三峰では神官が社僧の下に従属するという形態をとっていたから、御嶽神社とは比べものにならないほど大きな被害が出たのだ。神官の手によって仏具などの一切が焼き捨てられ、激しい廃仏希釈運動が展開されたようだ。

三峰や大山に比べると、御嶽は社僧の力が弱く特質だったようだ。とはいえ、維新後は御師の布教活動は縮小を迫らる。年に三回行っていた檀家廻りは夏だけ、もしくは冬だけの一回となる。戸籍の変更により神主は氏族、御師は平民という戸籍に編入され、神道の国教化により御師は神職の末端組織にも位置しない存在となる。

このため平民となった御師は生活の糧を無くし、帰農化を求められるようになる。各地にいた多くの御師が農業や商業に移行したが、御嶽という山地では地理的にも環境的にも帰農化は無理なことであり、かつての檀那との結びつきを強めて生活していくほか選択肢がなかったようだ。

そうした背景があり、大正・昭和初期になると旅館経営をする御師が増え、今では食事処や旅館を経営して生活をしている。

太占(ふとまに)
御嶽神社の特異性は太占という神事からも分かる。御嶽神社のホームページの数枚の写真でどのようなものか見ることができるが、現在、御嶽神社と群馬県富岡市にある貫前神社だけで行われている祭事である。

鹿の左肩の骨を焼き、骨の割れ具合によって作物の吉凶を占うものである。例えば、小麦6・人参9・さつま10・わせ10・おくて10・きび10…と作物と数字が羅列され、檀那はそれを指標として農作業に従事するといったものである。埼玉県入間郡のある講中が太占と実際の農作物の豊凶関係を調べたところ、80%以上が的中していたらしい。

年始に行う太占の結果は、冬の檀家廻りで御師が各家に配り、現在でもそれを指標に農作物を植える農家があるらしい。

~次回に続く~

参考文献
西海賢二『武州御嶽山信仰』岩田書院(2008年)

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