【旅の拾いもの】日本一周4日目・5日目 和歌山県 熊野詣から知る日本の中世⑤

和歌山県

小栗判官
唱導に使われた説経節で有名なものに「小栗半官」の物語がある。これも、熊野の歴史を調べていると必ず出てくる。ハッピーエンドで終わるストーリー性のある物語で、時宗はこれを布教に使って熊野詣の勧進を行った。

簡単に物語を説明すると、主人公の小栗が許婚の照手姫(てるてひめ)の実家の豪族一味に毒殺されるところから、物語が進んでいく。常陸の国の城主だった小栗は、容姿の良い照手姫に惚れて結婚を約束するが、両親の許可を得なかったために反感を買い毒殺される。小栗は地獄に堕ちるが、閻魔大王に現世に送り戻され、「餓鬼阿弥(がきあみ)」として蘇生することになる。それを見つけた藤沢上人が小栗を土車(つちぐるま)に乗せ、「この者を一引した者は千僧供養、二引した者は万僧供養」と書いた木札を胸に掛ける。このおかげで沿道の人々は次々に土車の綱を引いて小栗を湯の峰に送る。美濃の宿に売られていた照手姫も亡き夫の供養のために暇を取り、この土車を5日間も引いたという。そんなこんなで湯の峰に着き湯に浸かると、四十九日後に餓鬼阿弥だった小栗は元の姿に戻ることができた。その後は京に出て出世し、照手姫と再会してハッピーエンドとなる。

餓鬼阿弥とは、当時「がきやみ」と呼ばれていた、ハンセン病患者を表している(五来重『熊野詣』)。小栗を助ける藤沢上人は、時宗の念仏聖のことである。藤沢(神奈川県)から熊野の湯の峰温泉まで移動したことになるが、土車の綱を一引きすれば千人の僧侶による供養に、二引きすれば一万人の僧侶による供養に相当するとされている点は、熊野詣の際に沿道の住民による援助があったことを表している。社会的弱者を援助することも、熊野権現のご利益に預かれるとされ、盲人や障害のある参詣者も喜捨を受けながら山中を歩いたのだ。

この説経節から、熊野という地がハンセン病患者を受け入れていたことが分かる。時宗の聖達は、ハンセン病患者の救済をテーマにした説教「小栗の判官」を創って、時宗と熊野の信仰を宣伝したのである。

教団の成立
一遍が小栗判官の話を用いて全国を歩き、熊野詣を勧めていたのだと、旅をしていた時は勘違いしていた。しかし、この説経は一遍が創ったものではない。小栗判官に登場する藤沢上人は時宗の聖を表しているのだが、藤沢に時宗の寺が建てられたのをきっかけに説経が創られ布教に使われたと考えられる。

一遍は教団を創らなかったし、本拠地も持たなかった。一遍の死後、時宗は自然消滅したが、弟子の他阿が教団を立ち上げ時宗の定住化を図る。その後、3代目の遊行上人が亡くなると、教団は二つに分かれ敵対する。呑海という僧が藤沢に清浄光寺を建て、藤沢上人と名乗り自分こそが時宗の4代目と名乗るようになり、呑海の時宗がその後優勢になる。

小栗半官に出てくる藤沢上人は呑海のことで、小栗半官の説経ができたのは呑海が藤沢道場清浄光寺を建てた後だとされている。五来重の『熊野詣』では、正中2年(1325年)とされ、大橋俊雄『一遍聖』では、清浄光寺の建立は1324年~26年の説と1320年の二つの説があると書かれている。いずれにせよ、1320年代ということだろう。

小栗判官が創られたのは一遍の存命中ではないが、一遍が各地で時宗を広めた時には、ハンセン病患者が一行の周りにいた。物乞いとして生きていくしかない彼らは、一遍が勧進を行う広場や寺社に集まり、庶民からの喜捨を当てにしていた。一遍の活動を記した一遍聖絵には、寺社の壁の外に座って物乞いをしているハンセン病患者が描かれている。

一遍は彼等を拒まなかったし、熊野の信仰も彼等を拒まなかった。一遍が熊野の勧進を独占し各地で布教していくうちに、時宗とハンセン病患者の距離はより身近なものとなり、一遍の死後には小栗半官が創られるようになったのだ。
そして、時宗が各地に広がっていくと、ハンセン病患者にとって熊野は聖地となり、湯の峰温泉に集まるようになっていったと思われる。ハンセン病患者が湯の峰温泉に向かった道は、小栗街道と呼ばれ今でも残っている。

ハンセン病
ここで、ハンセン病について書いておきたい。熊野三山の歴史を調べると、ハンセン病で苦しんだ人がいかに多かったのか知った。社会的に差別され、物乞として生き、治る見込みがなくその生涯を終えた人は、つい最近まで多くいたことが、ハンセン病の歴史をみると分かる。治療法が確立するのは最近のことで、それまで多くのハンセン病患者が長い歴史の間で苦しみながら生きてきた。

日本でのハンセン病の最古の記録は720年となる。世界では旧約聖書にその記述があるとされ、紀元前からあったらしい。世界で治療法が確立したのは昭和18年(1943年)、日本で治療が始まったのは昭和21年(1946年)。人間の長い歴史からすると、つい最近になってようやく治療法ができたといえる。それまでの長い間、ハンセン病患者は治る見込みがなく、病気と付き合いながらその生涯を送ってきた。

ハンセン病はらい菌が感染して起こるもので、感染力は極めて弱く通常は感染しない。菌は少々の高温でも生きられず、体温の低い皮膚や抹消神経で発症する。最近の研究で、まだ免疫機能が確立していない乳児期に極度の不摂生や栄養不足に晒されると、弱いらい菌でも気道感染(接触感染ではない)することがある。感染者の大多数は生涯発症しないが、一部が数年から数十年の長い潜伏期間を経て発症することが分かってきた(栂嶺レイ氏『誰も知らない熊野の遺産』)。

感染力は弱く菌自体の生命力は高いとはいえないが、発症してしまうと、手足を腐らせ、顔の肉を腐り落としてしまう。神経は麻痺するため熱い・冷たい・痛いといった感覚はないが、同時に動かせなくなる。戦前でも近寄ると移ると言われ、根強い差別があり、発症したら村八分にされ、親族は就職や結婚ができなくなることもあった。昭和の時代でそういった偏見があったくらいだから、中世ではもっと蔑まれた。

五来重の『熊野詣』には、こんなようなことが書かれている。昔はハンセン病患者は発病すると、家族にかかる迷惑を恐れて、暗くなると終わりのない巡礼の旅に出た。この病気は悪化して体を腐らすだけで回復の見込みはなく、乞食と野宿と野垂れ死にだけが確実に待っている。家族のためを思い旅立ち、家族は生きている間はその重荷が消えることはない。戦争なら生きて帰れるチャンスがあるし、死んでもその死は一瞬であり、戦死者には名誉や勲章が与えらえる。しかしハンセン病患者には体の肉が崩れ落ちていく希望のない放浪の旅と、軽蔑という社会的疎外の苦痛がある。社会はそれを天刑病とし、前世の罪悪の報いだと考え、ハンセン病患者にとって、らい病とは戦争よりも大きな惨事だった。

ハンセン病に罹り発病するのは、前世の行いが悪いからだと考えられていたのだ。人としての尊厳を失い、朽ち果てていく運命にあったハンセン病患者のことを思うと、何とも言えぬやりきれなさを感じる。自分の身に置き換えて考えてみれば事の重大さが分かるだろう。絶望という二文字以外存在しない。

庶民の熊野詣④
承久の乱以降、上皇の熊野御幸が次第になくなり、武士による熊野詣が盛んになる。地方の有力武士は配下の村人を従えて参詣したから、多くの集団が各地から熊野に来たことになる。同時に、一遍の教えを引き継いだ時宗が踊り念仏と小栗半官の説経節を用いて熊野信仰を広めたため、ハンセン病患者や病人、体に障害のある者も熊野に集まるようになる。

具体的な時期は調べても分からなかったが、時宗4代目呑海が清浄光寺を建てた1320年頃から、応仁の乱の始まる応仁元年(1467年)の頃までに、多くの庶民が熊野に訪れ、蟻の熊野詣といわれるほどの盛況振りだったと考えられる。

熊野詣をした庶民とは誰のことを指すのか疑問だったが、庶民の熊野詣をみてきたように、最盛期の主役は武士と「社会的弱者」であった。そして、庶民がどのように移動できたのかも疑問だったが、周囲の助けを得て移動できたことも分かった。

先にも書いたが、ハンセン病患者や盲人、体に障害のある人々は、沿道の住民の援助を受けて命を繋いでいた。また、参詣者からの喜捨も受けていた(小山靖憲『熊野古道』)。藤原宗忠が天仁2年(1109年)の参詣の際に橋を渡れなくなった女性を助けたり、山中で会った盲人に食糧を分け与えたことが『中右記』に書かれていることは先述の通りだが、そういう信仰も熊野にはあった。参詣者は途中に出会う恵まれない者に施しをすれば、功徳を積むことができるとされた。そうした信仰が熊野にはあったため、病人に障害のある者が山中を移動し、食べ物をもらうことができたのだ。

湯の峰温泉
そして弱者への援助は、彼らの念願だった温泉に浸かるという目的を助けたことだろう。病人や障害者が目指す場所は、本宮ではなく湯の峰温泉だった。小栗半官の説経を聞き、お湯に浸かれば病気や障害が治るのではないかと、一縷の望みを持ったのだろう。信じればこの苦しみから解放され救われると考え、心の底から救済を求めたのだろう。そうした人は数知れずおり、湯の峰温泉に集まったのだ。土車を引いたり食べ物を分け与えたりするのと同じように、貴族や武士は病人がお湯に浸かるのを助けたのだろう。

お湯に浸かった後の、彼らのその後は分からない。湯の峰温泉の湯宿や本宮で物乞いをしたのだろうか。山中で果てたのだろうか。そういったことを知る由はないが、湯の峰温泉や本宮のある熊野の地にはそうした歴史があったことは間違いないだろう。

2015年日本一周の旅で通った湯の峰温泉のバス停

熊野詣の衰退
15世紀をピークに栄えた熊野詣は、16世紀から衰退することになる。15世紀を境に熊野は伊勢にとって代わられ、近世になると伊勢参りの爆発的な人気が出て、完全に逆転することになる。熊野詣が衰退した理由は主に二つと考えられる。一つは戦乱による社会情勢の変化。もう一つは参詣路の整備による伊勢参りの増加だ。

■戦乱の拡大
応仁の乱が始まることで戦国時代に突入する。守護が力を持ちやがて守護大名となり、更に戦国大名になり自国を運営していく。領国を一円支配するようになり、貴族の荘園を武力でもって切り崩していくのだが、寺社の荘園も戦国大名に接収されることになる。三河にあった熊野の荘園もほとんど戦国大名に取られるようになる。こうなると、他国への移動がまずできなくなる。関銭を取るための関所は、古代の軍事的な側面を復活させ、領国にとって害になり得る者の侵入を防ぐようになる。怪しい者の往来は制限しようということになり、遊行する聖の存在を良く思わない大名が増え、聖の世俗化を強要するようになる。

そして戦乱による移動の制限も起こる。敵対している国の間を檀那を連れて熊野詣などできるはずがないし、熊野に行くまでの道で橋が壊れれたり町が焼かれたりすれば、参詣することができない。そうした状況になり、村人は単独で関所を通過できる山伏に代参をお願いすることで、熊野詣のご利益を得ようと考えるようになる。これは先述の、近藤祐介氏の『熊野参詣の衰退とその背景』で知ることができる。

そこには、熊野詣が衰退した理由として、村人の経済的理由や戦乱、交通路の問題などにより、熊野詣の実施が困難にり、それに伴い次第に山伏は熊野先達業務を放棄し、代参という新しい形での参詣形態を生み出していったことが書かれている。交通に関しても、今川と北条の対立により「駿府不通」となっていることが書かれている。

山伏の定住化
応仁の乱後、守護大名が力をつけ熊野の荘園を切り取るようになると、熊野はその経済基盤を補うために山伏による檀那獲得に精を出すようになる。各地に赴いた山伏は村落で檀那を増やしたが、戦乱による村の経営難や交通路の不通により、先達としての役割を捨て、村に溶け込むようになる。

山伏(遊行聖)は祈祷を扱えるし、多能だったため、村人としては歓迎するところだったのだろう。日々の祈祷や葬式、聖によっては踊念仏や盆踊りといった唱導から発展した芸能を指導しただろうし、土木に明るい聖は堤防や堀、用水路の指導をしたのだろう。また、建築の指導をする者もいたのだろう。多彩は聖は村に溶け込むのにさほど苦労が要らなかったと考えられる。

ちなみに、江戸時代になり泰平の世になると、聖や山伏は幕府や藩から定住することを求められ、各地に溶け込むことになる。

交通路の整備
熊野詣が衰退したもう一つの理由に、交通路が整備されたことも考えられる。室町・戦国時代にはすでに交通路や宿泊施設がかなり整備されていた。伊勢は平地でアクセスがいいから、熊野よりも人気が出るのは当然のことになる。

それに、代参や代受苦といった考えが聖の存在を有難いものにするのなら、庶民は何もわざわざ自分が苦しい思いをして険しい山中を歩くこともない。江戸中期になり平和な世の中になると庶民の旅は娯楽の割合を大きくしていくが、時代が進むにつれて苦行を行う巡礼の旅は、人々の関心から遠ざかっていくものになる。

15世紀には西国三十三所観音巡礼が庶民に知れるようになり、伊勢から熊野に向かう参詣者が増えたようだが(『熊野古道』)、これは同時に伊勢神宮の人気が出てきたことを意味している。西国三十三所観音巡礼とは、那智の青岸渡寺を第一番札所とし、那智大社を起点として旧来の熊野参詣道中辺路ルートを逆に辿るするもので、修験として平安末期からあった。15世紀の蟻の熊野詣によりこの西国三十三所観音巡礼は有名になったと考えられているが、一番札所の青岸渡寺に行く前に、まずは伊勢神宮に行く参詣者は多かったのだろう。

伊勢を表とすると熊野は裏になる関係は先に述べたし、庶民の間では伊勢路が依然使われていたことについても書いた。京都からの距離を考えた時に伊勢路の方が紀伊路よりも近く、道が整備されていることを考えれば、伊勢にお参りしてから那智の青岸渡寺に行こうと考える者が多くても不思議ではない。そして伊勢神宮の知名度が段々上がっていくうちに、そのうち熊野には行かなくなっていったことが考えられる。伊勢には精進落としにうってつけの遊郭や見世物小屋、そしておいしい食べ物を出す店が充実している。何も苦労してお金をかけて熊野の本宮大社まで行かなくてもいいだろうという風潮になっていったのだろう。

山伏の伊勢御師化
これは同時に、先達の御師化を進めた。熊野の山伏が伊勢の御師になったのだ。伊藤正敏氏の『無縁所の中世』では、伊勢と熊野の神人を兼ねるものもいたことが書かれている。「聖は阿弥陀・法華経・観音・伊勢・熊野などの雑信仰をあわせ持っており、勧進のためなら、いかなる信仰も柔軟に利用する。どの宗派にも位置づけられないと同時に、どの宗派の要素も持っている。」(伊藤正敏『無縁所の中世』)。

聖は今で言うところの営業職と同じで、転職する度に売るものを変えていったのだ。山道を歩くよりも交通の整備された伊勢神宮への参詣を勧めた方がお金を稼げるだろう。こうした事情があって、熊野信仰は伊勢にとって代わられたのだ。

山伏(広義の聖)は寺社の名を使って遊行・勧進をするが、寺社から給料が出ている訳ではない。むしろ収入の一部を寺社に収めていることが多い。そうした関係から寺社は聖を管理しておくことはできず、山伏の御師化や村への定住化を防ぎ自分らにとって都合のいいように繋ぎ留めておくことできないのも、当然の流れだろう。

熊野比丘尼
こうして熊野の先達が檀那先の村に定住したり、伊勢の御師になることで、ますます熊野詣は衰退していく。この衰退に歯止めをかけ、経済基盤を何とか死守しようとしたのが、熊野比丘尼という存在である。熊野信仰を各地で布教する女性の宗教家である。

起源は神社の巫女と言われているが、その出自は分かっていない。先達と同様に様々な過去をもった人間がいたことが考えられる。絵解きの曼荼羅を携え、各地で熊野権現が描かれた曼荼羅を解説して、その信仰を広める。熊野牛玉(ごおう)という烏の集合体で作られた文字を売り、梛(なぎ)の葉を売り、収入を得ていた。梛の葉は並行脈が強く引っ張っても切れないため、夫婦和合のお守りとして鏡の裏に入れる人が多かったようだ。

こうした女性の宣教師なる者が現れたのも、熊野の特徴だと言える。しかし、熊野詣の衰退は止めることができず、太平の世になると遊行者を嫌う幕府の圧力があり、彼女達もまた布教先に根を張り生活していくようになる。

2015年速玉大社の梛の木

近世の熊野詣
近世になり泰平の世になると、庶民が講を組んで旅をするようになる。巡礼や湯治といった名目で手形を持ち関所を通り、日常から解放されて羽を伸ばすようになる。伊勢参りが一番知られているが、富士山や日光東照宮、善光寺や金比羅山に旅をする庶民も多く、各地で旅がブームになった。そんな江戸時代中期以降、熊野はどうだったのかというと、あまり名前は出てこない。

読んだ本の中では近世以降の熊野詣については書かれていることがほとんどなかったが、Wikipediaによると、観音巡礼が広まり巡礼講が各地で組まれて団体の巡礼が盛んに行われたとある。熊野の那智山青岸渡寺は、西国三十三所観音巡礼の起点となるため、伊勢路から熊野の地に入り紀伊路を通って大坂や京都の方に北上していく庶民がそれなりに多かったのかもしれない。

西国三十三所観音巡礼はその名の通り、観音信仰によるものなのだが、他には
坂東三十三箇所巡礼や秩父三十四箇所巡礼というものがある。そして、それらを合わせて日本百観音というらしい。西国三十三所を33回巡礼すると満願となるのだが、それを地域から依頼されて行う三十三度行者と呼ばれる職業的な巡礼者もいたようだ(Wikipediaの西国三十三所、近世における庶民化)。先述の代参や代受苦の思想からくるものだろう。三十三もある霊場を33回も走破する山伏がいるのだから、日本百観音を走破する行者もいたのではないか。

いずれにしても、そういった霊場への巡礼よりも、交通路が整備された寺社への旅の方が断然人気があったのだろう。近世の旅は巡礼というよりも娯楽の要素が大きく、山道を歩いて滅罪したり来世の安楽を約束してもらうという霊場への巡礼はそれほど行われなかっただろう。

個人的にはそういった巡礼の方が好きだし、そう思う人も少なからずはいるとは思うが、講を組んで村で恒例の行事となると話は別だ。一生に一度くらい羽を伸ばして羽目を外して楽しもう、という巡礼を名目とした娯楽の旅の方が断然多かったのではないかと思う。日々鍛錬、日々精進の教えに重きをおいている宗派が、根強く浸透している地域で行われたくらいなのではなかろうか。

『熊野古道』によると、熊野詣が衰退したことにより、三山の山伏は大名貸しなどの金融業に力を注ぐようになったとある。今後書くつもりだが、寺社には金融業としても顔もある(京都の「旅の拾いもの」で書きたい)。先達は村に溶け込んだり、伊勢御師になったり、金融業を営む業者になったりして、熊野詣の道案内をすることは無くなった。口任せにいいことを言って庶民からお金をもらうより、自然の中で人と関わらず暮らす方が好きな者は、三十三度行者になったのかもしれない。村から頼まれて、日本百観音を制覇することを仕事とした山伏もいたのかもしれない。

具体的な文面は見つからなかったが、時代が更に進み江戸時代の後期になると、紀州藩による神仏分離統制が行われたようだ。これは水戸学から興った古来からある神道に立ち返ろうという運動で、外来の仏教は排除しろというもので、明治の神仏分離令と同じものと考えられる。詳しいことは分からないが、そうした統制があり熊野詣が更に衰退したことが想像できる。

あとがき
熊野信仰には懐の深さがあったのだろうか
信不信を問わず参詣者を迎え入れたのだろうか
浄不浄を問わなかったのだろうか

旅をした時は特に考えることもなく、熊野の神社は懐深く来る者拒まずといった、庶民を救うものだと思っていた。しかし、熊野三山の歴史を調べてみると、無条件に庶民を救った訳ではないことが分かる。現世利益や約束された極楽浄土を得るには、苦行を伴わなくてはいけないばかりでなく、多くの費用を払わないといけない。安全に巡礼するには関銭を払わないといけないし、聖が配るお札はタダではない。金品の供え物もあっただろう。苦行や作善が参詣者には課せられたと言っていいのではないか。

一遍は念仏を唱えれば十分だと教えを説いたが、実際熊野本宮に行くには険しい山中を歩く必要がある。熊野詣をする者には、苦行と作善が求められる訳で、「信じれば救われる」「念仏を唱えれば救われる」といった宗派とは違った信仰だったことが分かる。現代でも、タダで楽して救いが求められるとは思えない訳で、多くの宗教では信者は献金と奉仕活動を提供する。苦行や作善を要するからこそ、熊野信仰が栄えたとも言えるのだろう。

穢れを拒まなかった点は懐が深いと言えそうだが、上皇や貴族の参詣では出発前に穢れを落とす期間が設けられていた。それに、ハンセン病患者は本宮大社に参拝できなかったのではないかと思う。これはもう一つの疑問なのだが、ハンセン病患者は本宮大社に参詣することができたのだろうか。湯の峰温泉に浸かった後は、本宮大社に向かったのだろう。GoogleMapで見ても歩いて1時間の距離だ。天刑とされたハンセン病を直すには、滅罪が必要となる。本宮まで辿り着いた後に、境内に入り念願の参拝をすることができたのだろうか。

ハンセン病患者は、本宮大社の境内に入ることができなかったのではないかと思う。境内には入れず、外で参拝者からの喜捨を受ける暮らしをしたのではなかろうか。それを知る文章を見つけることができなかったし、熊野大社の曼荼羅というのか絵巻というのか、熊野参詣を描いた絵にはハンセン病患者が境内に描かれていない。ハンセン病患者を隠すことなく描いている一遍聖絵では、彼らは寺社の外に描かれてはいても、境内に描かれているものは見つけられなかった。建物の中に描かれいることはあるが、熊野三山の境内とは思えない。

熊野信仰は、本宮大社に向かう途中で死んでも極楽に行けるとされ、黒穢(黒不浄とも)という死の穢れを受け入れていたとされるが、ハンセン病患者が境内に入ることが許されなかったのならば、熊野の寺社は彼らを穢れとして拒んだことになる。そんな疑問があり、熊野の信仰はまだよく分からない。今回熊野詣について調べて知ったことは、まだ熊野詣の一部に過ぎない。今後も熊野についての本を読んでみたいと思う。

熊野詣について調べてみて
それにしても、長くなってしまった。正直なところ、熊野の信仰については興味はなかった。熊野詣という旅について知りたいと思い、軽い気持ちで記事のテーマにしてみたに過ぎない。日本一周の旅では、4日目と5日目の2日間を熊野に使ったから、「旅の拾いもの」では4日目に熊野詣について書き、5日目は熊野の特産品か江戸時代の紀州藩の産業振興について書こうと考えていた。

それが熊野詣について調べていくと、宗教との繋がりが思いのほか深く、そこにふれずにいられなくなってしまった。熊野詣は、江戸時代の庶民の伊勢参りのような娯楽的な旅ではなく、巡礼の旅である。巡礼である以上、宗教と切っても切り離せない。それに、旅だけに焦点を当てようとしても、関所や先達という寺社に属するものが出てくる。中世の社会は、寺社という宗教勢力が政治にも生活にも根強く結びついていて、庶民の生活を知ろうとすると寺社という存在が付いて回る。

何かと宗教が絡むことにうんざりしてテーマを変えることになるだろうと思っていたが、予想に反して興味を持つようになってしまった。寺社のことが分かれば、中世という時代のことが分かるからだ。それに寺社について知れれば、趣味である散策もこの先更に楽しくなるだろう。寺社について調べ始めたのはつい最近のことで、詳しく分かるようになるのはまだまだ先のことだが、思いの外、寺社について分かりやすく書いている本は結構ある。

中世といえば、文化が花開いた時代としても知られている。茶道が有名だが、茶道からは和菓子や懐石料理、焼き物や生け花が発展し、今日もその名残がある。その茶道は禅宗の影響を強く受けている。寺社というものが分かると、文化も知ることができ、普段の生活も楽しくなりそうだ。旅や散策もそうだが、和菓子や懐石から派生した料理などを知れば日常も楽しくなると思う。

嬉しいことに、熊野詣をテーマにしたことで、今後知りたいことが沢山出てきた。関所に道路、鎌倉時代の海路に室町時代の大陸との貿易、唱導から発展した芸能、温泉と聖との関係、荒行、ハンセン病、観音信仰、などなど。今まで見向きもしなかったことに興味が出てきた。意外に調べやすかったのも良かった。これまで自分に興味がなかったけで、それらを扱った本は調べてみると身近にあるものだ。

参考文献
五来重『熊野詣―三山信仰と文化』講談社学術文庫(2004年)
栂嶺レイ『誰も知らない熊野の遺産』ちくま新書(2017年)
伊藤正敏『無縁所の中世』ちくま新書(2010)
小山靖憲『熊野古道』岩波新書(2000年)
伊藤正敏『無縁所の中世』(2010)ちくま新書

参考資料(サイト)
近藤祐介『熊野参詣の衰退とその背景』
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/rihum/kondo-jinbun14.pdf

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