【旅の拾いもの】日本一周2日目 旅では気づかなかった愛知と熱田の魅力 

愛知県

旅の2日目は熱田神宮と名古屋城に行った。熱田神宮は境内の空気が素晴らしかったが、神社から出るとすぐ寂れたシャッター街があり、その一角にヘルスの店があった。それを見ると、さっきまでの清々しさも一気になくなり、何だかなという残念な気持ちになってしまった。名古屋城は城に向かうまでに広く長く続く、何の楽しみもない道を淡々と歩き、城に入ってからも広い城内を延々と歩き、見所がなくただ広いだけの城内にうんざりしてしまった。

そんな、旅の時はがっかりした名古屋城周辺だが、後から調べてみたらちゃんとした理由があった。きちんと知っていれば、旅の時にがっかりすることなく、楽しみながら歩けたのだ。今回は熱田神宮と名古屋城について、調べて知ったことを書いてみたいと思う。

熱田神宮だが、旅エッセイにも書いたが、参拝した時の境内の空気は素晴らしかった。鳥居をくぐって境内に足を踏み入れると、がらっと空気が変わり、ひんやりとした気持ちのいい空気に包まれた。参道に並ぶ木々からは生命力が感じられ、歩いているとこっちまで元気になるような、そんな場所だった。しかし、気分が良かったのも束の間、神社から外に出ると寂れたシャッター街が目に入ってきた。車道に面した通りにはシャッターが閉まった店が並び、スプレーで落書きがされている。ただでさえ景観が悪いのに、その一角にはヘルスの店がある。熱田神宮が素晴らしい場所だっただけに、何でこんな所にこんな店があるのだろうと残念に思った。せめて裏の道に移動するとか、景観を損ねないように条例で移設できないものかと思った。

2015年熱田神宮

この光景は旅が終わってからも覚えており、熱田神宮はいい場所だったなぁと思い出す度に、このヘルスの店も思い出してしまう。何であんな所にあんな店があるのかと。しかし、ある時ふと、神社の近くだからそういった店があるんじゃないかと思って調べてみると、その通りだった。

熱田神宮は江戸時代に多くの参拝者が訪れた場所だが、そういう神社やお寺の近くには花街や遊郭があるものだ。神社やお寺に参拝した後に行う「精進落とし」のために、そうした場所があるのだ。「精進落とし」については、旅3日目の伊勢参り(おかげ参り)の所で書くことにするが、寺社仏閣に参拝することは神の領域に足を踏み込むことを意味する。神の世界で祈願をしたら、精進落としをして俗世間に戻らないといけない。神域と人間の世界を区別するために必要なものが、精進落としなのだ。ちなみに、精進落とし=性行為とは限らない。

そんな理由があって江戸時代は神社や寺社の近くには花街や遊郭があったのだが、熱田神宮周辺に関しては、熱田という土地が宿場町として栄えたことにも起因している。今では熱田よりも名古屋の方が栄えているが、当時は逆だった。熱田神宮のある門前町として発展した熱田は、16世紀にはすでに町場が形成されて経済活動が行われていた。家康の名古屋城築城も熱田の役割を意識したものであり、名古屋の城は熱田に向かって発展していったのである。熱田神宮があることから、宮宿と呼ばれた熱田は、東海道最大の宿場町として栄え、名古屋の外港として尾張と全国との経済活動の中継地になった。熱田の港では毎日朝夕の2回、市が立ち、魚や鳥、海産物が取引されてた。知多半島や伊勢、志摩、紀伊などから集荷された魚が熱田の市で売りさばかれ、名古屋城かに供給されていのだ。そういった経済活動が熱田にはあったため、宿場町も栄え花街や遊郭も集まったのだ。

こういった歴史を知っていれば、熱田神宮の近くにヘルスの店があろうと、何ら不思議ではない。むしろ当時の状況を知れるありがたい景観だともいえる。

2015年熱田駅周辺のシャッター街

旅の二日目にもう一つ不快だったのは、延々と歩かされた名古屋城だ。駅から城まで延々と歩き、城内に入ってからも天守閣まで延々と歩き、うんざりした。天守閣に入り展示物に目を通すも、個人的に興味を持てるものはなく、何ら面白みのない退屈な城だと思った。城内のパネルに金の鯱鉾は豪華なもので何億円のお金がかかったとか書かれていたが、単なる豪華自慢にしか思えない。豊臣家に対抗するため、家康が豪華で広大な城を造ったことぐらいしか、特徴がないように思えた。何でこんな名古屋市民は目立ちたがり屋なのか、ただただでかい物を造りたいだけだったんじゃないか、なんてことを思ってしまった。たが、それも自分が何も知らなかっただけで、ちゃんと理由があるのだ。

まずそもそも名古屋城が造られた理由だが、尾張の地は、関東に本拠地を置いた江戸幕府にとって、京都・大坂への軍事的な抑えとして最重要拠点だった。関ケ原で勝ったとは言え、西国には有力な豊臣恩顧の大名が集まり、毛利・島津などの大名も勢力があり、家康にとってはまだまだ安心できる状態ではなかった。尾張を直轄地として軍事的に優れた拠点とすることが優先課題であったが、それまであった清州城は軍事的には弱点の多い城だった。庄内川の下流にある清州城は水害が多く、水攻めされると兵糧に欠くといった地理的弱点があった。城郭が子規模で大量の兵を駐屯させられない欠点があり、そのうえ1586年に起きた天正地震で液状化が起こっていた。そうした理由から、家康は早急に現在の熱田台地に新しい城を造り、西国統一への拠点とする計画を実行に移したのだ。「清州越し」と言われる城下町の引っ越しである。

清州越しでは、武士はもちろんのこと住民は町ごと名古屋に移転した。清州にあったほとんどの寺社も名古屋に移り、商工業者も名古屋に移住した。熱田台地(名古屋台地)は広かったため、地理上の制約がなく、「碁盤割(ごばんわり)」という規則的な区画割がされた広大な城下町ができることになった。整然と規則的な町割り、直線的な通りは、この時の名残である。旅の時に退屈に思えた退屈な長く広い道は、終戦後の空襲で焼け野原になった状態から出来たものだが、その基盤は清州越しの時にできたのだ。

2015年名古屋の大通り

そして名古屋城についてもう一つ押さえておきたいことが、天下普請によって築城されたということだ。天下普請とは簡単に言うと、江戸幕府が諸大名に課した土木工事のことである。名古屋城の他に、江戸城、駿府城、彦根城なども、天下普請によって造られた城である。名古屋城は西国20家の外様大名に築城させた城であるが、これには外様大名の財力を削るという意味合いもあった。秀吉所縁の大名の財力を消耗させ、大坂方への交通の要を抑え、更には徳川の実力を天下に示す、一石三鳥家康の政策である。

築城には連日20万人が従事したとも言われ、外様大名の負担はかなり大きいであった。あまりの課役に秀吉子飼いの大名である福島正則が愚痴をこぼした逸話は有名だが、それはこの時だったと言われている。ある時、加藤清正と池田輝政と福島正則が談笑している時に、福島正則が「今回の天下普請は酷過ぎる。縁者のあるそなた(池田輝政)からちょっと言ってもらえないか」と言ったら、加藤清正が「それならさっさと国に帰って戦の準備をすればいいではないか」と言い、笑ったというものだ。

家康の天下普請は西国大名の財力を削ぐのに効果があったのだが、他にも効果があった。それは、あえて城内の防御拠点をそれぞれの大名家に造らせたことだ。城を造った大名は、鉄壁の防御施設が造られる様を実際に自分の目で見ることで、この城が落ちないことを理解したという。他家の大名とあの場所は防御力が高い、と情報を共有すればするほど、この城が戦の時にはまず落ちないことを身をもって知ったのだそうだ。実際、大坂の陣で豊臣家側に付いた西国大名はいない。付いたのは浪人ばかりである。

2015年名古屋城 天下普請で天守台石垣を造った加藤清正像

城内が広いのも、鯱鉾にお金がかけられているのも、城下が広いのも、全て西国大名に経済的負担を課すためである。外様にお金を使わせて、幕府にとって重要な一大拠点を造ったのだ。日本一周の旅でいろいろな城に立ち寄ったが、名古屋城と大坂城は群を抜いて広大だった。それには、こういった理由があったのだ。

残念ながら旅をした時には、そのことを知らなかった。天下普請で造られたことすら、知らなかった。知ってみると、散々歩いて頭に来たことも、今ではむしろ感謝さえしている。

2015年名古屋城

参考文献
三鬼清一郎編(2015)『愛知県の歴史』(県史23)山川出版

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