【小話】平安時代 空也と葬送

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民衆の中に入り浄土信仰を布教し、「市聖」「阿弥陀聖」と呼ばれた空也は、比叡山で得度を受ける前は五畿七道を巡り苦修練行をしていた。険しい道があればそれを平らげ、橋を架け、井戸を掘り、曠野(こうや)に棄てられた死骸があれば火葬に付し、南無阿弥陀仏を唱えて葬った。これらの行いは最澄が『梵網経(ぼんもんきょう)』に定めた菩薩戒の基本理念を実践したものとされる。

菩薩行というのは、菩薩が世のため人のために実践する慈悲利他の行のことで、日本では早く南都に伝わっていたらしい。最澄は八福田を説き、その中で曠野美井・水路橋梁・平治嶮路・孝事父母・供養沙門・供養病人・救済苦厄・無遮大會、を勧めている。

水のない曠野(こうや・荒野のこと)に井戸を掘り、川に橋を架け、険しい道を平にし、親孝行をし、受得を勧め(菩薩戒は在野人にも受得を勧めているが、これは意味が違っているかもしれない)、病人を介護し、苦厄を取り除いてやり、男女の区別なく誰にでも財施・法施を行いなさいと説いたもので、そうした行いをせずに通り過ぎるのであれば、それは菩薩として破戒になると説いたものである。

菩薩行を行った空也の活動の中で興味深いのが、火葬に携わっている点だろう。野山・野辺に棄てられた死体があれば、これを一箇所に集めて積上げ、油を注いて焼き清め、そして阿弥陀仏を唱えて霊魂を供養したという。阿弥陀仏の名号を書いた念仏紙をかけてやったり、名号を書いた卒塔婆(そとば)を立てたらしい。これはお墓を建てて死者の供養をしたということである。

当時、死者を葬りお墓(卒塔婆)を建てていたのは、後に三昧聖と呼ばれるようになる者たちだった。在俗の生活を送りながら、遺骸の火葬・埋葬や墓地の管理という宗教的な行為に従事した聖を三昧聖というが、それが史料に出るのは鎌倉時代以降とされる(注)。一般的に三昧聖は六道の辻、六地蔵といわれた墓地の入口で遺族から遺骸を受け取るが、そこから先は三昧聖に任され供養され、家族は立ち入らなかったらしい。穢れが多いとされた墓地に家族が再び墓参りすることもなかったらしい。

(注)『日本の名僧⑤浄土の聖者 空也』(伊藤唯真編)によれば、初見は鎌倉中期、叡尊の自伝『感身学正記』1269年(文永6年)に「三昧」と墓地の意味で書かれている。「三昧聖」と書かれている早い例は南北朝時代で、1365年(貞治4年)明通寺の社寺文書に書かれている。

貴族に奉仕し荘園を持ち、そこで働く土豪や百姓と対立を深め紛争を起こし、貴族化していった僧たちが関わることのなかった葬送を、空也が関わった点は見逃すことができないだろう。当時の仏教は人の死を扱いながらも、葬送から距離をとり、また庶民のために教えを説くことはなかった。空也は当時の僧が避けた穢れを気にすることなく、死者を丁重に葬り供養した。そうした、人を人として扱う態度が、貧しく苦しい生活を強いられていた多くの民衆の支持を得る理由であったのだろう。

空也に従った弟子たちの中には、彼の死後、三昧聖となり葬送に関わった者がいる。彼らは空也聖と呼ばれた。空也聖のすべてが三昧聖だった訳ではなく、鉦(かね)や鉢を叩き踊念仏をして遊行する者、生業として茶筅などを作って売り歩く者がおり、三つの系統に分かれたとされる。

そして三昧聖は空也によってできたのではなく、畿内七カ国では以前から既に葬送に関わる者がいて、その起源は行基に繋がるという。三昧聖は行基を祖と仰ぐ行基系三昧聖が圧倒的に多く、その他に空也系、時宗系、高野山系、その他と5つに分かれていったとされる。

行基について本を読んだ時には気づかなかったが、行基があれだけ民衆の支持を得て大事業を成し得たのは、やはり民衆の死に関わったからであろう。行基が畿内に建てた49院にはそのそれぞれに卒塔婆があったという。弱者を介護し、病人の世話をし、極楽を説き、指に火を灯すといった派手なことをして信者を増やしていったとされているが、その根底にあるのはやはり葬送に関わったからだろう。

三昧聖について調べようと思い本を探したが、なかなかなかった。あっても室町時代や江戸時代のもので、その起源についてはあまりよく分からない。同和問題と結びつける本も少なくはなく、敬遠しがちになるが、宗教や風習を知るうえでは避けては通れないものだろう。疫病・飢饉・台風・洪水・地震と災害が多く多くの死者が出続けていた平安時代だからこそ、その時代を捉えるには葬送に焦点を当てることも必要なのではないかと思う。

参考文献
北山茂夫『日本の歴史4 平安京』中公文庫(2004年改版)
伊藤唯真編『日本の名僧⑤浄土の聖者 空也』吉川弘文館(2005)

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