【小話】平安時代 市聖 空也

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平安時代中期を代表する僧に空也(くうや。こうやとも)がいる。民衆の中に入り念仏を唱え、難解な教学仏教を説くことをせず、除災と招福を求める民衆の要望に応えた世俗的な紗弥の仏教を貫いた人物として知られている。

若い頃は優婆塞(うばそく・民間の宗教者、または半僧半俗的な生活形態をとる在家をさす)として五畿七道を巡り苦修練行をし、道路に難所があれば険しい道路を平らげ、橋を架け、時には井戸を掘り、曠野(こうや)に棄てられた死骸があれば火葬に付し、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱えて葬った。彼が常に南無阿弥陀仏と唱えることから阿弥陀聖(ひじり)といわれ、掘った井戸は阿弥陀井と呼ばれた。

938年(天慶1)に京都に入り町中を遊行して乞食し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝わる。その後比叡山に上り得度し光勝(こうしょう)という僧名をもらうが、自らは「空也」という沙弥(しゃみ・得度を受ける前の名前)を名のり、庶民に念仏を勧めた。平安時代以降、貴賤老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のおかげであるといわれている。東北地方にも遊行して念仏や浄土信仰を広めたといわれる。

人の集まる市の門に立ち人々に念仏と浄土信仰を勧めたことから生前、市聖(いちのひじり)と呼ばれた。空也自らは自身の出自を語ったことはないが、生まれながらの貧民ではなく、醍醐天皇の第五皇子、または一説には仁明帝の孫ともいわれている。財や名誉、社会的地位や自己愛、結縁への執着など、自身を縛るありとあらゆる絆を捨てて、無一物、無尽蔵の中に安らぎを求めた生き方から、「捨て聖」とも呼ばれた。

市井の者は空也と共に念仏を唱えることを喜び、次第にその数は増え集団化していくなかで、踊念仏が始まったとされる。空也によって始まったとされる踊念仏は、大衆の心を強く惹きつけ、爆発的に広まっていった。後に踊念仏で遊行してた一遍が「空也上人は我が先達なり」と言ったことはよく知られている。

空也は短い衣を着て草鞋を履き、胸に鉦鼓(しょうこ)台をつけて鉦(かね)を下げ、手に撞木(しゅもく)と鹿角杖(わさづえ)を持ち布教を行った。空也の意志を継ぐ空也聖もこの姿であったため、彼らは阿弥陀聖とも鉦打(かねうち)とも鉢叩(はちたたき)とも呼ばれ、各地に空也を祀る空也堂を建てて空也僧集団を形成した。

踊り念仏による浄土往生の念仏を勧める一方、950年(天暦4)に人々から浄財を集めて、1丈(約3m)の観音像を造立し、また金色の字で『大般若経(だいはんにゃきょう)』1部600巻の書写を発願し13年間かけて完成させ、洪水で荒らされた鴨河の川原で『大般若経』の書写供養を行った。これまで貴族のものであった写経供養を、民衆の浄財で民衆のために行った意義は大きい。

その後、空也は写経供養を行った地に西光(さいこう)寺を建て、これが後の六波羅蜜寺となる。南無阿弥陀仏と唱える口から、その一文字一文字が仏となるあの空也上人像が六波羅蜜寺にあるのも、そのためである。空也の名声は生存時から高く、当時の貴族・文人との交遊を示す詩文が残っているらしい。

参考文献
北山茂夫『日本の歴史4 平安京』中公文庫
伊藤唯真編『日本の名僧⑤浄土の聖者 空也』吉川弘文館(2005年)

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