【本のレビュー】平安時代 『律令国家の転換と「日本」』坂上康俊

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本の紹介

律令国家の転換と「日本」 日本の歴史05 (講談社学術文庫) | 坂上 康俊 |本 | 通販 | Amazon
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奈良時代末期~平安時代初期を主に扱った本。題名にあるように、この時期は律令国家が「転換」した時代である。9世紀に天皇の権威が確立してゆくなかで、中央では藤原氏北家による摂関制度が成立し、地方では郡司の没落と国司の受領化が進展し、「古代の終わりの始まり」と位置づけることができる。

また、対外的には唐を中心とする世界に対して日本は別の枠組みの中にいることを確立しようとした時代でもあり、「日本」を独立したものにするべく国際秩序を構想していった時代でもある。

著者は9世紀を「試行錯誤を重ねながら、その時々の眼前の課題を片づけていくという姿勢、青写真を用意してそれに合わせるように現実を変えていこうというやり方と決別した対処のあり方で良しとする姿勢が明確に打ちだされた」時代とし、その後の日本国家の政治の体質になっていったと述べている。

在地首長制を基盤にしていた律令国家の全国支配は崩れ郡司が没落していく状況は、8世紀以前と結びつけて理解すると古代から中世へ移行したといえるし、10世紀以降と結びつけて理解すると国家が受領という官僚を通して個々の負名を把握し、中央集権的古代国家が完成したともいえる。

神から人へと変わる天皇、摂関政治の確立、徴税論理の転換、地域社会の変容、受領と負名といった題材を扱い、9世紀を簡潔に描写している本。

読んだきっかけ

中公文庫の『日本の歴史4 平安京』の副読本として読んだ。巻頭のはじめにを読むと、同じ時代を扱っている『日本の歴史4 平安京』には国際情勢が抜けていることを指摘し、また奈良時代は律令国家の崩壊と捉える考えがあるが、それでは藤原道長を頂点とした王朝の華美な生活が説明できなことを触れており、著者の考える9世紀を述べるている本であることが書かれてた。

それなら、自分にとって難解だった『日本の歴史4 平安京』で疑問だったものが何かしら分かるのではないかと思い、本を読んでみることにした。奈良末期~平安初期の財政問題を知れそうな期待が持てたことが、本を読むきっかけになった。

読んでよかった点

中公文庫の『日本の歴史4 平安京』では触れられていないことが書かれていて、新しく知れたことが結構あった。おかげで奈良末期~平安初期の時代を考えるうえでの材料が増え、読む価値のある本だった。文章は至って簡潔。そのため、土台となる知識があれば非常に分かりやすいが、知らないことに関してはまったくといっていいほど理解できない。

個人的に一番知りたかった財政問題は、奈良時代の過度な軍事・造作と税収の減少だけが政府の財政を圧迫したのではなく、中央官人の冗員が著しく増加したことが問題だったことを知ることができた。外交問題も非常に読み応えがあるもので、唐を中心とする世界観から距離を置き、日本が独立した国家であることを示すために国内の政策が出されていたことも、新しい視点で面白かった。

今一つだった点

とはいえ、難しかった。内容を理解できたのは全体の3分の1くらいだろうか。「本の紹介」で書いているように、一つの時代を説明する時、どのように捉えるかで出された政策の意味も違ってくる。政策が何ために出されどのような結果となったのか考えるには、いろいろな捉え方があり、混乱してしまいそうになる。

自分の知りたかった財政問題に関しては、問題点と著者の述べる結論は理解できたが、それに至った理由が理解できなかった。さらに何冊か本を読んで、知識を構築してからでないと理解できないことを痛感させられた。

気になったことのメモ

長岡京遷都の理由

長岡に遷都した理由に、難波津が機能不全になったことが挙げられているのは面白い。桓武朝以前の造都・造寺のために森林が伐採され、また瓦用の粘土が採掘されることで淀川や大和川の上流の大量の土砂が大阪湾に流れ込むことになり、難波津が機能不全になってしまっていたことは知らなかった。難波津に溜まる廃棄物は難波京の廃棄物となり、難波京の機能を代わりに持ちうるものを造る必要があったことが遷都の背景にあったことを本を読むと知ることができる。当時は陪都(ばいと)、つまり複都制の構想の中で造られた可能性が高く、また長岡京は水陸の利便がよく、一旦造ってしまえば難波京の機能も果たし、財政上も効率がよかったらしい。
 
長岡の地に遷都した理由は仏教勢力から距離を置くためであり、また頼りとなる秦氏が長岡の地にいたことは『日本の歴史4 平安京』に書かれているが、それとは別の理由もあったことは視野が広がる思いである。しかしそんな流通の利点があると思われた長岡の地は、792年(延暦11年)にの6月と8月に洪水が起き、土地の脆弱性が露見され、近親者が相次いで亡くなったことから怨霊を恐れるようになり、平安京へと遷都することとなる。

神から人になる天皇

神と同様に扱われていた天皇が人と変化していく流れを、宮中の儀式の変化から書いている章も興味深い。奈良時代は天皇は神であり、即位の際は統治の理由を神話を用いて語られていたが、平安時代になるとそのようなことはなくなり、廃太子が出ることになってもとりあえず皇太子を立てるようになる。中国風の即位の儀に変更され、中国風の礼服・礼冠で天皇が登場し、臣下の者は奈良時代に行われていた拍手をする代わりに拝舞(はいぶ)をするようになる。

父方・母方の系譜が天皇を支えるものという論理は引き続き重視され、系譜的に正当であることが重要になる。系譜的に正当であるということと、統治能力があるということとは、本来別次元のものであるが、日本では統治の実際を摂政や関白に委ねる方式を採用することで、この間の矛盾を解消させてしまう。天皇が統治権を与える存在として、統治者を更に遥かに通り越した存在となることで、後に時代が下って武士が政治を行うようになっても皇統が途絶えることなく続くことになったことは、非常に興味深い。

9世紀の初期に天皇が中国の君主に近づこうとし、また同時に離れようとし、神から離れたとしながらも、同時に統治面では人間を超える存在となるという、日本独自の天皇制が書かれているところも、読んでいて勉強になる。

蝦夷征討と唐との外交との関連性

九州の隼人と東北の蝦夷への政策が唐との関係で行われていたという視点も、新鮮なものだった。日本は唐に自らを小国と認めさせるためには、蝦夷や隼人などの異民族を支配下にいれる必要があった。しかし新羅・渤海との交渉が順調となり平和になると、日本は唐の帝国構想の中に居る必要はないと考え、自国を唐帝国の埒外に置こうとする。遣唐使が大体10年おきに派遣されていたのが、20年空き、30年空きと交流を無くしていき、そして隼人と蝦夷を征討することにする。自国に異民族を抱えておく必要性がないならば、自国に組み入れてしまった方がいいに越したことはない。隼人は既に治められていたが、建前上、班田が行われず朝貢させられていた。805年(延暦24年)に班田を行って一般の公民とし、同様に蝦夷も征討して取り込んだ。

天皇が北面したのは東大寺の大仏に対してだけだったが(天子南面についてはこちら)、唐の帝国構想にいる以上、唐から使者が来たら北面しないといけなくなる。そうしたことを避けるためにも、唐との国交を次第になくしていった。

財政問題

「読んでよかった点」でも書いたが、9世紀の政府の一番の財政問題は、冗員(有り余っている必要のない無駄な人員)という人件費だった。かの有名な三善清行の「意見封事十二箇条」は、奈良時代の仏寺造営で天下の富の五割が、桓武朝の宮都造営で三割が、仁明朝の奢侈で一割が消え、そして貞観年間の応天門修復等で残りの大半が失われたと嘆いているが、軍事や造作は一時的な問題ともいえる。

本の中では、土田直鎮氏(『日本の歴史5 王朝の貴族』の著者)の計算によるものとし、「五位以上の官人は奈良時代の始めから天平年間前半までは、おおよそ百数十人で推移していたのに、天平の中頃からは二百人台が普通となり、称徳朝にはついに三百人の大台を突破して、以後これが恒常化した」と述べ、そして9世紀の後半にはついに四百人に迫ろうとしていると述べている。

これは五位以上の官人の数であって六位以下の官人も相応に増えたと考えられ、人件費が厖大になったことが分かる。更には高官も充実しており、例えば大臣は奈良時代から平安時代初期までは左右が揃っていないのが普通だったが、仁明朝くらいからは揃っていない方が珍しくなってくる。大納言以下も同様と考えてよく、官僚だけでなく皇親への手当もばかにならない。桓武天皇や嵯峨天皇は多くの子孫を残しているが、親王をはじめとして多額のお金が必要となる。親王ともなれば大・中納言クラスの給与を保証しなければならず、太政大臣と太上天皇の封戸は三千戸、左右大臣、皇后・皇太子が二千戸だったが、二千戸は加賀や越後の国の郷数に匹敵し、一国の租庸調分が毎年そっくり皇太子や左右大臣個人の給与になっていたことが分かる。飢饉や災害時は天皇以下の経費を削減し、高官の給与をかなり恒常的に返上していたのだが、そうはいってもこれらの人件費が恒常的に政府の財政を圧迫していたことは明らかに分かる。

そんな状況でありながらも、9世紀の朝廷は国司を叱咤激励して貢納を追求し、10世紀にはそれなりの収益を国司から吸い上げるシステムを構築したことも書かれているが、それに関しては難解で理解することができなかった。

以上、中公文庫の日本の歴史とはまた別の視点から9世紀を考えることができ、読みごたえのある本だった。簡潔に書かれている分の中で、さらりと仁明朝の頃に梅から桜を愛でる変化が起こり、それが現在のお花見であるといったことも書かれていて、読んでいて面白い本でもあった。

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